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小説『だからあなたは其処にいる』第三章 さよならプアン

プロローグと第一章、第二章の記事はこちらになります。良かったら、これまでのお話もよろしくお願いします。






第三章

「編集長、小野田さんのところへ行ってきます。一平お借りします。」

「お願いします。一平しっかりね。」

「はい。行ってきます。」
最近なんかおかしいな…。視線が優し過ぎる。

点検中でエレベーターに乗れないから、萩原さんと僕は階段で降りていく。古いビルには壁にシミとヒビ割れがあちこちに出来ていて、耐震は大丈夫なのか不安になる。

不安といえば、冀州きしゅう編集長の言葉のなたが一週間前から一度も飛んでこない。かつてのギラギラしたヴィーナスはどこへ行ってしまったんだろう。叱られないと不安になる僕のほうが、どうかしているのだろうけど。


ビルの外は、まだ夏の日差しだ。
九月半ばだというのに、柔らかな太陽は僕のもとへ近づいてくれないらしい。

「今日は、先週話した画廊へ行くからな。うちの雑誌の後ろから三ページ目。綺麗な絵が月代わりで載るだろう。あの広告は十年前からだから。大事なお得意様だ。失礼のないよう頼むぞ。」

「はい。わからないことは正直にお聞きして、会話を膨らませます。」

「岸田の武器は素直なところだから。きっと小野田さん一家にも気に入ってもらえるさ。」

萩原さんに肩をポンッとされると、僕のエンジンがかかった。

シュッ。シュッ。シュッ。
機関車イッペイゴウ、出発進行!


ベネチアンガラスの花瓶と程よく間隔をあけて並んだ絵画が、ウインドウ越しにも目を引く。

小野田さん夫妻はどんな風に画廊を経営してきたのだろう。画家の才能って、画廊の人ならわかるのかな一瞬で。

「ぼんやりすんな。緊張感を持ってくれよ。一平次第では、広告収入が百万とんじまうんだから。」

ひ、百万!雑誌にそんな金額で広告を出しても意味ないんじゃないのかな。今はウェブ広告のほうが効果ありそうだけど…。

ダメだダメだこんなこと考えちゃ。しっかりしろ、一平!

「頼むから一平、せめてにこやかにしててくれよ。今日は話さなくていいから。」

二人がなかなか入ってこないのを見て、小野田さんがドアを開けて迎え入れてくださった。

「どうなさったの。新しい作品が来てますから。早く見てくださいな。」

グレーヘアが流行するずっと前から、小野田さんは綺麗に髪を夜会巻きにしてシルクの華やかなワンピースで絵を売ってきたのだろう。空間と小野田さんのファッションが完璧にマッチしていて、僕はすっかり飲み込まれてしまった。

萩原さんが僕のことを一瞥して、小さく手をペンギンのようにして見せた。黙ってろってことなのか、それとも…。察しの悪い僕には、そんなジェスチャーは通じないのに。

「今回の作品も素晴らしいですね。小野田さんのお宅とアンリの交流はいつからなんですか。」

萩原さんが、しみじみとアンリの新作を鑑賞しつつ話し始める。

「アンリさんが美大で講師をなさっていた頃に、うちの息子が生徒でね。アンリさんはご存知のように、あっという間に立派な画家になって。プールル美術館の企画展も毎年なんですよ。」

「存じ上げております。アンリの素晴らしい作品が、小野田画廊に集中しているのはそういう繋がりがあったのですね。」

「おかげさまで、あの子の美大の学費も画廊のほうでなんとか。この通り無駄になりましたけど…。」

「小野田さん、無駄になんかなりませんよ。これからの仕事に全てきてきますから。」

「あの子には随分お金も期待もかけてきましたけどね、主人もやっと諦めがついたみたい。」

小野田さんが僕の母と重なって、他人事なのになんだか申し訳ないような気まずさを感じる会話だった。

「よろしくお願いしますね、萩原さん。ほんとに世間知らずな子で恥ずかしいけれど。」

逞しくうなづく萩原さんは、いつ見ても頼もしい。必ず約束を果たしてくれそうな強い予感を感じさせる。

小野田さんが振り返り、僕と目が合う。
何を話せばいいのかわからなくて、手から汗がびっしょり出てきた。

「えぇっと、岸田さんでしたか。うちの子も美大出身なんですよ。よろしくお願いしますね。」

「は、はい。僕は専門学校です。よろしくお願い申し上げます。」

小野田さんと萩原さんが楽しそうに笑った。なにかまずいことを言ってしまっただろうか。

「萩原さんのお話の通りね。素直で真面目。きっと素敵な編集さんになれるわ。」

「ありがとうございます。」
萩原さんがお辞儀するのに合わせて、僕も慣れてきたお辞儀をして、小野田さんの画廊を後にした。


編集部に戻るなり、冀州編集長が満面の笑みで迎えてくれた。

「一平、やるじゃない。小野田さんの広告ページ、倍になったわよ。」

「ありがとうございます!」

良かった。本当に良かった。

小野田さんの息子さんと自分を同一視することだけは避けたくて、話を七割で聞いて正解だったんだ。冷静に考えて落ち着いて聴くことも、経験値が上がればなんとかなるものなんだな。

腹も減ったし疲れた。

「明日は神戸へ出張だから、一平もう帰っていいぞ。お疲れ!」

校正や読者アンケートは誰がやるんだろう。
いつもなら、すぐに誰かに聞いて納得してから退社するのだけど、今日は質問なんてやめた。

広告を取るのは新規じゃなくてもしんどいなぁ。
いやぁキツかったーーー!!
今夜は飲む!一人お疲れ会だ!


新しい季節は
なぜかせつない日々で

スピッツ『ロビンソン』より


プアンが好きだった歌が、どこからか流れてきた。

「ヘッタクソ!お前なんかが歌うな!プアンの歌だぞー!!」

路地裏には青いバケツがあちこちに置いてあって、僕は怒りと寂しさをその中へ吐き出した。

「ちょっ、お兄さん。何してんの!!いくらギャベジだからってやめてちょうだい。」

店の中から長身のド派手なメイクの人達が出てきて、僕の背中をさすってくれた。

「この子、顔色が悪いわ。急性アルコール中毒だったら死んじゃうわよ。どうする、ママ?」

「とりあえず全部この中へ出させてから、ソファへ寝かしましょ。意識はあるから大丈夫じゃない?」

「面倒はごめんだわー。わたし、帰りまーす。ママ、ケンジねえさん、お先です。」

「本名言うな!おつー。もう、この子なんなの。赤ちゃんなの。汚いわぁ。もう甘えないでよ。軽い子ねぇ。小指で運べるわ。」

「はいはい。お疲れ様。知らない子なんだから相手しなくていいの。あんたも帰っていいわよ。あとは黒服ちゃんにお願いするから。」

黒服のアルバイト二人が青い手袋をはめて、慣れた手つきでゴミ袋を縛る。そして、ギャベジのバケツを洗いに川へ行った。

残りの一人は、窒息しないようにと嘔吐物を口の中からかき出して、おしぼりで丁寧に拭きあげた。

「さすが元看護学生!助かるわ。仕事が増えたわね。私のポケットマネーから今月のバイト代に五千円足しておくから。オーナーには内緒よ。」

「や、こんなのたいしたことないっす。五千円ありがとうございます。」

「私はまだお客様と、おデートがあるから。戸締りお願いね。鍵はうちまで届けてね。いつも通り母か妹が受け取るから。」

ママが店を出た後、まだ店内に残っていたキャストがいた。ケンジだった。

「わたしドレス汚されたー。もう捨てどきかもね。こん中へ入れちゃおう。」

「えー、ケンジさん、せっかくバケツ洗ってきたのに勘弁してくださいよ。まだ着られますって。めちゃくちゃ似合ってるのに。」

「だから本名で呼ばない!このドレス好きな人からのプレゼントなんだ。振られたんだけどね。」




目覚めると、知らない人が横で寝ていた。

とても綺麗な人だ。長身で、腕と脚にムダ毛が見当たらない。

何もかもが僕とは正反対だった。スースーと幸せそうに寝息をたてているから、僕は起こさないようにそっとベッドから抜け出した。

昨日の夜の記憶が全くない。たぶん、この人に迷惑をかけてしまったのだろう。

僕は名刺の裏に「ありがとうございました。仕事があるので失礼します。近いうちにお礼に来ます。」と、下手な字で書いてアンティークのチェストの上に置いた。

いい趣味してるな、この人。どんな仕事してる人だろう。後ろ髪を引かれる部屋だけど、今日も僕は忙しい。みんなより一時間早く出社すると決めてるんだ。

「ありがとうございました。」

声になるかどうかの囁きを残して、僕は美しい部屋を後にした。


電車を待っている間に、メールや電話のチェックをする。出社してからだと僕は仕事を進めることができない。

今日一日の仕事を自分なりに組み立ててから入社する。まだ一カ月しか続いてないけど、早起きは三文の徳なんだと実感する毎日だ。

少し準備が早いだけで周りの人はとても喜んでくれる。知らなかった。僕にもできることがあったんだ。

同じことをしても、以前なら叱られるか無視されるかの二択だった。相手が望むタイミングに間に合えば、仕事も人間関係も好転するものらしい。

大人になるってこういうことか、と三十三歳にして気づく。人と対等に話せるのは気持ちいい。落ち込むことは少なくなった。

明日はプアンの最終出勤日だ。

僕は外回りばかりだし、プアンは有給を消化しているのか殆ど出社していなかった。

あの日以来、プアンの姿を見ていない。
僕はもう彼女なんてできないと思う。

知らない間に入ってた僕の留守電には、プアンのさよならが『ありがとう』の言葉で綴られていた。ふふふと洩らす声が愛らしくて五回も聴いてしまった。もう二度と聞けないなんて信じたくない。

最後まで笑っているキミはやっぱり太陽だ。
ずっと嬉しくて、僕には眩しすぎたんだよ。


-続く-

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上湯かおり
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