小説『だからあなたは其処にいる』第五章 僕の初依頼
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第五章
一
「一平、知ってるなら知ってるって言ってくれよ。」
萩原さんが肘鉄を僕に食らわす。
「あの…失礼ですが、僕のことご存知なんですか。」
僕は必死で記憶の海を探すが、目の前にいる迫力満点のメイク真っ最中の人は出てこない。
「ぼうやじゃ失礼よねぇ。ごめんなさい。覚えてないのも無理ないわ。気にしないで。思い出さなくていいのよ。」
僕らと打ち合わせするというのに、その人はメイクの手を止めない。どんどん目が盛られていく。
「ごめんなさいね、時間がとれなくて。同時進行でお願いします。」
よくこんな薄暗いところでメイクできるよなぁ。僕は、見事な手の動きに釘付けになった。
奥のほうから、ハープのような綺麗な声が聞こえてきた。
「ママー、今日のお花こんな感じでいい?」
「ありがとう。とっても素敵よ。手が荒れるのにごめんね。あなたのお花じゃないと駄目なお客様が多くて。」
お店の設えに、こんなに力を入れているのか。今日は僕の無意識の偏見に気付くことばかりだ。
ニ
「広告って、作っていただくことは出来るのかしら。私達がそのまま雑誌に載るのは違うと思うのよね。絵とか写真とか書とか。」
「もちろんです。うちのデザイナーがいくつか提案させていただいて、その中から方向性を擦り合わせしていく形になります。掲載料と別にデザイン料もかかりますが、ちなみにご予算はいかほどでしょうか。」
メイクブラシをイッタラのグラスに入れ、ママさんは笑顔で指を三本立てた。
「三十万ですと、このくらいのサイズになりますね。文字のみのデザ」
「課長さん?部長さんかしら。私が指を立てたら一本百万よ。やってくれる?」
「あ、大変失礼いたしました。勿論、お写真やイラストの入ったものをご提案できます。」
萩原さんがしどろもどろになるのを初めて見た。まるで、僕みたいだ。
三
「ちょっと、ぼうや!仕事しなさい!ぼんやりしちゃって。ほんと世話がやける子ね、まったく。」
しまった…。僕の悪い癖だ。人の話を集中して聞くのが難しい。いつも途中から話がぼんやりしてきて、必死で僕なりに考えるんだけど見当違いのことが多い。いや、落ち込まないぞ。もう前の岸田一平じゃないんだ。
「すみません!」
僕が頭を下げると、綺麗なおねえさんになったママさんが、僕の顎を持ち上げて言った。
「あなたがデザインしてちょうだい。」
四
萩原さんが慌てて返答する。
「岸田はまだ新人でして。百件以上の実績があるデザイナーにお任せくだされ」
また、萩原さんの提案にママさんがかぶせてきた。
「課長さんのお気持ちはわかりますよ。でもね私、この子に仕事させたいの。お願いしましたよ。」
萩原さんが納得しかねるという表情をしていても、ママさんは一向に気にしていないようだった。
「はいっ!お任せください!」
僕の、急にやる気スイッチが入った。話を聞くのは苦手だけど、僕は絵を描くことなら大好きだ。
「一平、店内を見せていただいてデザインのイメージしてろ。あとは俺が説明するから。」
「そうね。ぼうやがそばにいると、話が前に進まないものね。」
とても楽しそうなママさんが、僕には不思議で仕方なかった。知らない人だけど、こんなに期待してくれているんだから頑張ってみよう。
面白そうだと思う仕事にやっと出会えた気がしたんだ。未経験とか関係ない。
五
編集部に戻ると、冀州編集長が仁王立ちで待っていた。
「一平、あの店でなにやらかしたのよ。契約したのはいいけど、絶対に一平にデザインさせろって電話で念押しされたわ。」
萩原さんは一人、するりと窓のほうへ歩いていくと、夕日を眺めながら煙草を吸い始めた。
「それが、僕には心当たりがないんです。あの辺りを歩いたことはあります、たぶん。よく行くバーが近いから、酔っ払って歩いたことならあるのかな、たぶん。でも今日のクライアントのお店は行ったことありません。初めてです。」
「編集長、一平が嘘をついてるわけでもないと思いますよ。まぁ、あの店のママが一平のこと気にかけてくれてるのは確かですね。赤ちゃんの頃を知っているのかもなぁ。ぼうや、って何度も言ってましたから。」
「なんだか話が見えないわ。親戚なの?思い出したら言ってよ、一平。デザイナーにアドバイスもらって、早々に五つデザイン画を描いて。今週末、クライアントにメール送信。週明け、一回目のプレゼンよ。」
「え!今日、水曜日です…。今週末って土日も入れていいですか?」
「いいわよ。一人で抱えないで、プロのデザイナーにアドバイスを受けるのよ。簡単じゃないんだから。」
うちの編集長は、契約数とか掲載料の額で喜ぶ人じゃない。読者にもクライアントにも長く満足して関わっていただく、それを実践しているんだと僕なりに理解してきた。
六
ふと、プアンの絵を描くことがあったのを僕は思い出した。
僕の左手が珍しく張り切っている。隣の席の、ボツになった須藤先輩の企画書をもらう。
ところどころ文字が透けて見える白いコピー用紙の裏紙に、お店で見た美しい人を描き始めた。
花をいけている人の美しさは群を抜いていたな。クリムトのエリザベート・レーデラーみたいだった。
あの人をモチーフにすれば、きっとお店の雰囲気を広告で伝えられるはずだ。
素敵だと思う広告を創って、ママさん達に喜んでもらいたい。お客さんも増えたらいいな。きっとあの感じだと、僕の給料じゃ通えない店だ。あのサロンには、どんなお客さんが来てるんだろう。ママさんたちにいろいろ聞いてみたいな。こういう時、デザイナーさんは一人で黙々とデザインするのかな。
僕の初めての依頼。
今はまだなにも見えない。
シラーは確か、こう言ってたぞ。
もし君の行いと作品が万人に愛されないなら、少数の愛に期待すればいい。
多くのものに愛されるものは、所詮大したものではないのだから。
〜続く〜
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