小説『だからあなたは其処にいる』第十六章 仰ぎ見るなら空にせよ
前回のお話・第十五章はこちらです
良かったらどうぞ
↓
第十六章
一
「だい、じょう、ぶっ!」
「ハイッ」
「だい、じょー、ぶっ!!」
「ハイッ」
「くっそ〜、ぼ、僕だって、やれば出来るんだからなぁああ」
「海人、ぼうやが暴れん坊将軍なんだけど。なんか会社であったのぉ?」
「いつも通りですよ。頑張って働いて落ち込む。落ち込んでは呑む。それが岸田一平です。」
小野田海人は、荒れる一平を静かに見やった。
ニ
モッツァレラさんが、逞しい上腕二頭筋を見せつけレーシィなタンクトップ姿で迫ってくる。冀州出版社の須藤は借りてきた猫だ。かたくなにモッツァレラさんと目を合わせない。
「あたしたち、ほんとは五時から女なんですからね。なんで土曜だからって朝の十一時から冀州出版の相手しなきゃいけないのよ。」
アダムのママさんが、それはそれは嬉しそうにシャンパンを掲げた。
「さ、冀州出版と賢治さんの新しい門出を祝して。カンパーイ!!」
三
小野田海人が幹事となり、親のコネと金を駆使して新入社員・富頭賢治の歓迎会を催している。
此処は、街の中でもひときわ異彩を放つ、サロン『アダムとエヴァーン』のVIPルームだ。ミックスバーであるアダムでは女性客も入店可能である。
「このテレビ、デカすぎやろ。いくらするのん?」
須藤廣子がママさんに聞きながら、カラオケを熱唱する。須藤の十八番は、マイレボリューションだ。
「ほんと落ち着きがない子ねぇ。歌うか、喋るかどっちかにできないの、もう。」
楽しそうに初来店を堪能する須藤に、アダムのキャストとママが微笑みを交わした。
四
「賢治さん、大丈夫なの?なんかやなことでもあった?」
モッツァレラさんが、一言も話さずにいる富頭賢治《ふとう けんじ》の隣にそっと座った。
「わたし……どうしても一平さんのそばにいたくて。それで、此処を思い切ってやめたんです。でも、モッツァレラさんの言う通りだった。一平さんの迷惑になってるだけ。」
氷の溶けたグラスを見つめて賢治が溜息をつく。
「賢治さんって言うの疲れるから、ごめんね。あんたって呼ぶわよ。」
賢治は薄く笑みを寄せた。
「あんた、まだ冀州出版に入ってひと月も経たないのに結論早すぎない?確かにね、私は忠告しました。それはさ、あんたが今まで散々お客に泣かされてきたこととか、お互い燃えあがっちゃってトラブルになって大変だったこととか、諸々を踏まえて一応ね。要は言ってみただけのことよ。」
モッツァレラさんは紹興酒をあおった。
「賢治さんって言われると、もうアダムの人間じゃないんだって。あんたって言われると生きた心地がする。毎日寂しくて仕方ないし、こっちはこっちで自由なんかなかった。」
賢治は、つい先月までキャストとして働いていた店内のひとつひとつを愛おしんだ。
六
「あんたらさ、二人して景仰し過ぎなのよ。お互いをただ崇めて見つめ合うんじゃなくて、二人で目標に向かって歩んでいかなきゃ」モッツァレラさんの優しい毒がどんどん濃度を増していく。
「なって?けいこー?」
噂の人である一平が、しんみりと話し込んでいる二人のあいだに割ってきた。
「海人、ごめん。ぼうやを回収して」
慣れた様子で泥酔した一平を軽々と部屋の隅のヨギボーへ落とした。落下の天国では、スースーと寝息が聞こえる。須藤もまたそこで眠っていたのだった。
七
ママが二人の前に立った。
「女として生きるのも地獄よね。男は男で辛いことばかりだしね。誰だって仕事してるときに余裕なんかあるもんですか。余裕かましてるやつなんか真剣に仕事や周りの人のこと考えてないんだと思うわ。ぼうやはこの通りのポンコツだし賢治さんもどうかしてると思うけど、まだこれからじゃない。半年は頑張ってみたらどう?それで駄目なら此処へ帰ってくればいいから。」
賢治は薄くなった水割りを飲み、新しい酒を注文した。
八
あったま、いったぁ…
岸田一平は二日酔いだ。会社まで自転車で行くのは無理だと判断し、タクシーを呼んだ。
「運転手さん、途中コンビニへ寄ってください。」
「はい。お客さん顔色が悪いですよ、大丈夫ですか。」
運転手は車内で吐かれて困るから聞いただけだったのだが、一平は少し機嫌を良くした。
「運転手さん、ありがとう。お互い日曜日なのに仕事で大変ですよね。」
九
一平が日曜日に出社するのは初めてだった。
冀州ビルには管理人がいる。もし、管理のお爺さんがいても、一平は必要最低限のことしか話さないと決めていた。
到着してビルに入ると、小さなテレビの前で舟を漕ぐ管理のお爺さんがいた。一平はそのまま通り過ぎた。
アンティークのエレベーターに乗ると、一平はゆっくり四階へ上っていく。このエレベーターも、いずれ使えなくなるだろう。この美しさを、もう少し味わいたいと一平は思った。
十
僕は、この二週間ずっと新入社員の賢治さんのことが羨ましくて仕方なかった。最初は、憧れの人が職場にやってきて舞い上がったけれど、毎日毎日ダメな自分を見られることが恥ずかしくて情けなくて。
アダムで女装をしていた賢治さんは婦人服の知識も豊富で、読者の悩みにも気持ちを向けられる。冀州編集長が、あっと言う間に賢治さんを信頼したのも当然だと思う。大好きな人なのに、疎ましく思うようになってしまって…。僕は自分が嫌で仕方ないんだ。
小野田海人といい、出来る新人が増えたことで冀州編集長も元の明るさを取り戻していた。それもまた、一平にとっては卑屈になる要因となっていた。
十一
カチャ。
一平が合鍵で婦人部の編集室を開けると、そこにはパートやアルバイトのほか全社員の姿があった。
「わっ!どうして全員集合してるんですか?」
一平が驚く以上に、社員のみなが目を丸くした。
「一平らしくないじゃないか。どうした。誰も呼んでないぞ。」
新しい婦人雑誌の企画案を読む萩原が、満面の笑みを浮かべた。
「どうせ家にいたって、一本化される雑誌のアイデアで頭がいっぱいだし、今までの雑誌を見直しておきたくて来たんです。伝統は伝統で大切にしたいですから。」
「おぉー!一平いいこと言うね。アイデアを聞かせてよ。みんな色々と出し合ってたところ。」
須藤廣子が目を輝かせ、一平の机の上を片付けた。
十二
僕は知らなかった。
休みなく婦人雑誌をデザインしているみんなのことを。会議の前に意見の擦り合わせがあったことも。
みんなは努力しなくても生まれつきセンスが良くて出来る人間で、コミュニケーションもなんなく出来る別の世界の人達だと思い込んでいた。
十三
会議室じゃないから話しやすいな。よし、ボツでもいいじゃないか。言ってみるぞ!
「文庫ってご存知ですか。金沢文庫や浅草文庫です。着物が売れなくなっていくなかで、財布やバッグに型押しの友禅の技法を取り入れた工芸品を、若い職人が中心になってデザインしています。男女問わず人気が密かに高まってるんですよ。読者は、2000年あたりを境にブランド志向から自分のセンスにマッチしたデザインを求めるようになってきてる気がするんです。誌面からしかオーダーできない予約注文の形をとれば、読者は殆ど他人とかぶらない限定品を長く使えます。会社には10〜15%を入れてもららう。伝統工芸品の応援もできていいかなって思うんですけど…。ど、どうですか?」
こんなに長く会社で話したことない!喉が渇いてきた。水!水を飲もう。
みんなが熱心に聴いてくれた。
僕は社員になって本当に良かった。
ありがとう、母さん。
母さんのコネクションのおかげだよ。
〜続く〜
良かったら、全話おさめられたマガジンもご覧ください。ほぼ毎日、2,000〜5,000文字の連載を続けております。