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小説『だからあなたは其処にいる』第二章 結婚なんてできないよ


第一章はこちらです。


第二章の登場人物


【冀州出版社の人々】

岸田一平=僕
地方都市にある小さな出版社・冀州出版で働く33歳。小柄で気弱。とても素直な反面、流されやすくズルいところもある。そんな性格が災いしてトラブルの多い人生を歩んできた。好きなことには寝食を忘れて打ち込む。
 

冀州編集長
冀州出版社の三代目女社長。祖父の残した家訓、人は誰でも美しく生きられる、を実践してきた。2000年代に入り、紙の雑誌の売上が落ちてきたことから経営者として判断を迫られている。


プアン
岸田一平の彼女。冀州出版社の中で唯一のマルチリンガル。海外でもインタビュー取材ができることから雑誌の売上を伸ばしてきた。マルチタスクでタイトなスケジュールであっても仕事をきっちり仕上げられる。



萩原さん(萩原倫行 はぎわらともゆき)
冀州出版社の生き字引。64歳。ダンディな外見とおおらかな性格から人望が厚い。冀州編集長の父親と幼馴染で、地元のクライアントとの絆を大切にしている。一平の良さを伸ばしてから退職したいと考えている懐深い人。

第二章

「うぅーん…。いま何時だろ。ヤバッ。あと六時間しかない!!」

分厚い資料を手にしているプアンが、真っ赤な鬼のような形相で僕の前に立っていた。僕がピカソなら、この人間離れした美しい鬼を絵に描くのに。

「ご、ご、ごめん。寝ちゃってた。」

「うん。起きないと思ったから、仕上げといた。美味しいプーアール茶淹れたから飲めば?」

「えっと…あれから寝てないんだよね。明日、いや今日の会議とか取材とか大丈夫?」

「もちろん!プアンさんが何年編集やってきたと思ってるのかな、一平ちゃんは。」

ハグして許してもらおうとしたら、プアンがもう一度、資料を僕に突き出した。

「ベタベタすんな。コレさっさと読んで。せめて会議は自分の言葉で話さなきゃダメだよ。またアルバイトクンに逆戻りしたいの?」

何も言い返せない………。

僕は、最低な彼氏。
そして、最低な編集者だ。

無責任にも程があるだろう、せっかく掴んだチャンスなのに!!!バカか、一平。お前、一回◯んでこいよ、マジで。

「あー。また、ひとり反省会やってんでしょ。脳内で反省したって何にも変わらないのは自分が一番わかってるでしょ?一平ちゃん、自分を責める暇なんかないよ。さっさと赤入れて!」

僕は週三のアルバイトクンだったから、一度も時間との勝負をしたことがなかった。

出社まであと三十分。まだ五分の一しか校正できていない。僕はどこまでポンコツなんだろう。読むのが遅すぎる。赤を入れようにも言葉が浮かばない。

今朝のスーツ姿のプアンは、いつになく美しく儚げだった。長く流れる髪を揺らしながら、彼女はこう告げた。

「先に行くね。鍵は食器棚の引き出しの中。忘れないでね。」

手元の資料を読むのに必死で、彼女の伝言は届いていなかった。


「では、企画会議を始めます。今回は岸田の企画です。」

萩原さんの優しさに包まれて、会議はスタートした。プアンはこの場にいなかった。

しどろもどろながら、十五分で資料を読み上げ終わった。僕は顔を上げ、みんなの反応を見渡した。

誰一人として笑顔はなく、それどころか一様に複雑な表情をしていた。

「あ、あの…。寝ずに書いたんですけど…。駄目でしたかね…。」

僕は沈黙に耐えられなくて、言う必要のないことを発言してしまった。

シーンという音がしそうなくらい、シーンとしていた。

「私からは何も言うことはないわ。萩原さん、あとはお願いね。」

「冀州編集長。プアンのこともですか。」
萩原さんに瞳で微笑んで、目元に深い隈と皺を浮かべたヴィーナスが去っていった。


「岸田、座っていいぞ。お疲れさん。」

なんなんだろう、この空気。こんなに立派な企画書なのに、みんな変だ。僕は自分の声や話し方を頭の中でリピートしたが、何がいけなかったのか分からなかった。

萩原さんが立ち上がり、告げた。

「この企画は、プアンの最後の置き土産になる。いい企画だから、みんなで盛り上げていこうな。」

「あと、プアンの退社は来月末だ。送別会はなし。プアンの希望だ。ご家族みんなでカンボジアへ引っ越すそうだ。みんな無理に飲みに誘わないようにな。」

「知ってた?」
「タイじゃなかったっけ?」
「寿退社ってこと?」
「この企画、岸田とプアンのだったんだ。」
「どうりで…。」

みんなが次々に小声で詮索している。

日本を去るなんていうこんな大事なことを会議の最後に聞くなんて、あんまりだ。

僕に一言も話してくれなかったのはどうしてだろう。二人の将来を話し合えないなんて、僕は恋人じゃなかったんだろうか。

プアンに何度電話しても、ずっと留守電だった。プライベート用は家に置いてきたのかもしれない。

萩原さんと僕は、企画に必要なアイテムを集めるために、セレクトショップのオーナーと会食した。

その後、萩原さんは何故か美術館へ連れて行ってくれた。そういや、子どもの頃は母さんによく連れてきてもらってたな。懐かしいけれど、今はプアンのことで頭がいっぱいだった。

「岸田の好きな画家は誰だ?」

「プアンです。いや、モディリアーニとクリムトです。」

ブハハハ。岸田さんが大きな声で笑うと、周りの木々まで揺れそうだった。元ラガーマンの肩は逞しく、僕にはないエネルギーに満ちていた。

「いいと思ってたんだかなぁ。しっかり者のプアンと、誰に対しても優しい岸田。」

小さな池をクルクルと泳ぐ鴨の親子。風が吹くと水面に葉っぱが落ちてくる。

「知ってたんですか?僕たちのこと。」

「そりゃ、わかるだろう。プアンはいつも岸田の世話を焼いてたしな。岸田もプアンのそばにいたくて五年も踏ん張ってきたんだろう?」

「………。」

僕が苦笑いしていたら、萩原さんが肩をポンッとして慰めてくれた。

編集者にはなりたかったけれど、プアンのためにって気持ちは…。

この五年。
僕は、僕のことしか頭になかった。

プアンにとって、僕との日々はどんな意味を持っていたのだろう。仕事に燃えるプアンを見ることは、僕にとって喜びだった。

でも、夫婦になろうって気持ちが湧いてくることは一度もなかった。だからあの時も、返事に困って…。社会人不適合なのに、夫にも父親にもなれないよ。

僕は、プアンに振られた理由がわかった気がした。

「まぁ、そんなに落ち込むな。岸田なら、またいい出会いがあるから。」

どこまでも大きな萩原さんに比べ、僕はひたすらミジメだった。


冀州きしゅうさんからメールだ。そろそろ編集部に戻ろう。」

僕の歩幅は萩原さんの三分のニくらいしかない。でも駆け足なら、なんとか一緒に前へ進める。

プアンの、あの猫のような表情を見られるのは会社の中だけになった。あと少しだけど、編集者として初めての仕事を見ていてほしい。

僕は、青空に向かって微笑んでいた。


-続く-

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