小説『だからあなたは其処にいる』第十章 子どもたちと共に
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第十章
一
吉村春瑠は、かつての同僚で唯一の友達プアンにメールをした後、半年ぶりに母親に電話をかけた。
「あそこの内情を知るプアンに愚痴をこぼせる私はまだ幸せなのかもね。うん。わかった。また連絡する。お母さんには悪いけど、三人で実家に戻ることになると思う。部屋あけといてよ。お願い。」
もっと給料のいい求人を見かけるたび、春瑠は職場を変えたいと思ったが、子どものことで遅刻したり早退することに寛容な冀州編集長や同僚達を思うと、他所はこうはいかないだろうと踏み止まってきたのだった。
気がつけば、誰より親切にしてくれたプアンがいなくなってからというもの、話し相手は子どもとお世話になっている学校や療育の先生しかいなくなっている。
こんな日に限って、夕焼けが燃えるように鮮やかだ。
ここまで打って、春瑠は二度読み返し削除した。プアンだって恋に敗れて日本を離れてからまだ数ヶ月だ。傷は癒えていないはずで、聞いてくれるからといって何度もメールするのは春瑠の性に合わないことだった。
ニ
電車を降り、春瑠は自宅近くの駅に着いた。春瑠は溜息ばかりつく自分が可笑しくなってきたようで、ひとりクックッと笑い始めた。
人は、予想外のことに晒されると笑うものらしい。しかし、主婦はゆっくり落ち込む暇もない。
「スーパーへ行こう!」
声に出し、春瑠は落ち込む自分を鼓舞した。
三
「あの……。吉村さん、こんばんは。」
僕らしくないことしてるよなぁ。
「な、なんでここにいるんですか!!」
大量のお好み焼きとたこ焼きを手にして立っている僕に、吉村さんはかなり驚いている。
「プアンからメールが来たんです。僕ができることはなんだろうって考えたら、たこ焼きパーティーかなって思って。お子さん、たこ焼き好きですか?」
四
「岸田さん……。ちょっと気持ち悪いです。」
泣き笑いしながら、春瑠は言った。
「そんなー!せっかく美味しいのを買ってきたのに。いや、一緒に食べたいわけじゃなくて、吉村さんにお渡ししたら帰りますよ、僕は。」
汗びっしょりの一平を見て、春瑠はこんなに優しい人を見たことがないと思った。プアンがどうして仕事のできない一平と五年も付き合っていたのかわかった気がした。
五
「うちの子達、粉もん大好きなんです。ぜったい喜びます。良かったら、岸田さんもご一緒に。お願いします。」
離婚してから一度も他人を我が家へ入れたことがないのに、何故か春瑠は一平なら大丈夫な気がした。
六
ガチャ。
「ただいま。」
春瑠は笑顔で帰宅した。
「ママおかえり。今日は光生もいい子にしてたよ。」
「ママー!なんかいいニオイするね。」
小学一年生の光生が、サッと一平からたこ焼きの袋を奪い、部屋へ持って行った。
「光生、失礼じゃないの。ありがとう、って言いなさい。」
母親の春瑠が、たこ焼きに夢中な光生に言う。
兄の泰司が、たこ焼きを取り上げた。
「ありがとうって言ってからじゃないとダメ!こら!食べるな!!」
「うわーーん!!ママー!お兄ちゃんがイジワルするーー!!」
僕は、困り顔の吉村さんに微笑んだ。
七
僕には歳の離れた姉しかいない。両親は仕事が忙しく個食のことが多かった。こんなに賑やかな食事風景を見たことがなくて圧倒された。
「岸田さん、ビックリしたでしょう?うちの子ちょっと自分本位なところがあって。すみません。」
「男の子らしくていいですよ。」
男らしくない僕が言うのもなんだけど。子どものころ、男同士で喧嘩したことなんてなかったな。
八
「お兄ちゃんも食べなよ。僕のを分けてあげる。」
「あ、みつお君ありがとう。」
分け合って食べるたこ焼きやお好み焼きって、こんなに美味しいんだなぁ。
「ばかっ!この人が持ってきたんだぞ。分けてあげるって言うな!」
兄の泰司が、また光生を叱る。
「早く泰司も食べて。美味しいから。せっかく温め直したのに冷めるから。」
春瑠に言われて泰司はさっとそばに座り、カバのように大きく口を開けた。
「甘えん坊ね、はい。美味しい?あとは自分で食べなさいよ。」
やっと泰司が笑顔になった。
「たいし君は偉いね。」
僕がこう言うと、ふんっと鼻を鳴らして背中を向けた。子どもってかわいいけど難しいな。
初めて味わう家族の食卓の居心地の良さに、僕はすっかり長居してしまった。
九
「みんなで駅まで行ってあげる。」
光生がニコニコして言う。
「良かったら、そうさせてください。」
春瑠が、光生と手を繋ぐ。
「ぼくは行かない!」
兄の泰司は、リビングの隣の部屋へ入っていった。
僕は聞いているかわからないけど、その部屋へ声をかけた。
「今日は急に来てごめんね。ありがとう。」
十
「今日は本当にありがとうございました。」
春瑠がお辞儀をする横で、光生がペコリとして笑う。
「お兄ちゃん、また来ていいよ。」
「しー。来るわけないでしょう。ごめんなさい。気にしないでください。」
吉村さんの母として生きる姿を見て、僕は今まで女として生きることがどういうことか、なんにも知らなかったんだと思い知らされた。
「僕の方こそありがとうございました。また誘ってください。」
十一
僕が電車に乗ってからも、プラットフォームで二人はずっと手を振ってくれる。嬉しくて僕もそっと手を振り返した。
子どもがほしいと言ったプアンの気持ちが、少しだけわかった気がした。どれだけ酷いことばかりしていたのか。今ごろわかったってプアンが日本に帰ってくることはない。
僕はこの瞬間、女はズルいとか怖いとかいう自分こそ、狡猾なおそろしい人間じゃないかと自問した。
電車の窓から見える夜の闇が、今日の僕を飲み込んだ。
〜続く〜
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