とある 邦楽バンドに対するXでのライブ意見の炎上について

そのバンドは一定の人気を誇るが、かなり売れてきたのもあり、アーティスティックな面と売れ線とでジレンマに陥ってきて、これまでもリーダー自身その苦悩を語ってきた。当該バンドの音楽を深く見つめる者にとってもそのジレンマは共有していたように思う。
アーティスティックと商業性、永遠の商業エンタメのテーマだと思うけれど、両立や落とし所は常に難しい。さらに今の日本の音楽の聴かれ方からすると、より難しい。商業性、つまり多数にウケるには、わかりやすさが求められるので、チャレンジングな音の挑戦は理解されにくく、むしろ疎まれることも多い。

そして、どこからか、教育や慣習上、「肯定」こそ望ましく、その肯定の中身は厳しくは問われないという社会的風潮も大きくなった。エンタメにもそれが向けれられるようになった。場合によっては、宗教のように音楽ライブではマスゲームのごとく常に皆と同じ盛り上がりをし、皆と同じ手の振り方という無条件肯定にカタルシスを得るムードが醸成されてきた。演者もそれを求める人も日本には多い。わかりやすい一体感演出のムードがあるからか、カラオケ盛り上がりに近いからか、多くの人が盛り上がる。

でも、わかりやすさと無条件肯定が合わさると、音楽の持つ刺激は薄まっていく。ゆっくりと魅力は誰の目にも磨耗していく。無条件礼賛によってアーティストがただ消費されていき。それはどんなエンタメにも当てはまりそうだ。

一方で、どんなに発展的であって、愛情をこめた意見でも、苦言の場合にはあからさまな罵声が浴びせられるような環境になって久しい。無条件礼賛意見は発展的愛情苦言を押しつぶす、そんな時代になった。

そのバンドがいつものフェスと違い、大人や音楽好きが集うタイプのフェスで、いつものようなファン向けのヒットソングのセットリストを演奏した。それについて賛否両論あっていいと思う。ところが、「タイプの違うフェスだからアーティスティックな面で挑戦して欲しかった」との発展的意見で、すごく本来はポジティブな意見が炎上してしまった。一方的に無条件礼賛側からの非難が多かったように見える。
おそらく、あらゆるエンタメでアーティスティックな深みにハマっている人は、多少なりともこの感覚を経験してきたのではないだろうか。日本に強いファン文化という無条件礼賛になびきやすい多数のものから、発展や別の魅力の発揮を望むだけの意見(決してうがって斜めに語りたいものではない意見)が潰されていく絶望感。
「みんなが楽しんでるんだから、水を差さないで」「何様?」という一見正義のような意見に潰される。少数派は「みんな」に入らないのは当然のような横暴的意見で逆に何様?にさえ聞こえる。

自分はパンクという思春期にありがちなルサンチマンを抱えた音楽に思春期にハマっていた。パンクは敢えてまとめれば否定の音楽であるが、底の底に衝動に対する強い肯定があり、そこに青臭い魅力があった。音楽全体に対する衝動への回帰というアンチテーゼが強く音楽への肯定に結びついていた。だからいろんな影響を与えた。こういうのを書くのが恥ずかしいくらい、当時の音楽好きには当たり前のように理解はされていただろう(音楽として好き嫌いはさておき)。
音楽に水を差して、音楽にまた衝動という息吹を蘇らせた。

日本の売れているバンドの難しさは、ファン文化という日本に強いものによって、ファンを裏切る側面も持つアート文化が潰れるのは暗黙の当然という公約数があることだろう。長年ファン文化に迎合すると、もうアーティスト自体がセルフコピーのような音楽しかできなくなる。ライブは懐メロヒットパレードを続けるしかない。刺激が経年変化して、みんなで歳をとって、次の世代を熱狂させることは少なくなる。それでいい面もあるとは思う。でもそればかりが横行して、しかもそれに無自覚で他方を押しつぶすのは勿体無い。
いろんな当初はみずみずしい才能と新規性があった音楽が長年で摩耗して、ファンが同じことを消費するだけでは寂しいし、もっとすごいものが蓄積に裏付けされて出てくる機会を阻んでいるなあと。
バンドに対する意見が炎上した、そのバンドは、当初はこんな新しい邦楽あるんだというような世界を見せてきたアーティスティックな面が強かった。巨大化していく宿命だが、どうしてもわかりやすく多数派に寄る曲が増えてきた。大勢の若いライト層が集まる邦楽大規模フェスではわかりやすいセットリストしかできなくなってきたようである。
そこにジレンマを感じただけの意見が、多数派に非難される。これはエンタメにおいては不健康なことだなとすごく感じた。


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