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12月のFEECO magazine extra issue (仮)

毎度毎度カツカツの進行なので予定通りにいくか不安なのだが、12月中旬めどに雑誌『FEECO』特別号を出す予定。再読をキーワードに、90年代中心にしたビデオゲームを特集する。前々から書いていた『自伝的に記述されたビデオゲームの再読』が座礁し続けているので、先にこちらを発表することとした。
『ビデ再』は自分史にも近い内容だが、こちらは普段ゲームをしない人にも極力伝わるように努めている。当時のムードを反映したメディアの一つとしてのビデオゲーム、というのは簡単だが、どうしても自分の世代を代表するメディアゆえに独り言っぽくなってしまうのは否めない。それを中和するためにもいくつか寄稿をお願いしているので、バランスはとれると思うのだが。

単純に昔遊んだゲームを振り返って書くだけなら簡単だが、それだけならXやyoutubeで検索をかければたくさん出てくる。わざわざ本にするのだから、多少読者にふるいをかけてでも他が書いてないことをパッケージした方がよいと思う。こうなると上で述べた、ゲームをしない人への訴求が難しくなるが果たして、、。

ゲームは映画や音楽と違って、自分で完結させねばならないのがほとんどである。一本道である『ひぐらしの鳴くころに』でさえクリックしなければいけない。これがゲームの敷居の高さの一因であり、いかにチュートリアルをもうけようとも、『ストリートファイター2』で波動拳を出せない人は出せないし、『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』東の神殿のトラップをぬけられないし、『FINAL FANTASY Ⅶ』でミッドガルへと続くプレート途中のワイヤーに飛び移れないと思っている。
ヴィジュアルノベルのようにほぼ受動的なゲームがインディゲームとして人気を博している理由にも、これは含まれている気がする。自転車に乗れる人が乗れる前の感覚を忘れてしまうように、ゲームができるというのはかなり限定された感覚なのではないか。映画やドラマを早送りで見る、所謂ファスト視聴という傾向が話題になった時は、ゲーム配信動画を思い出した。できない・足りない部分を補いながらゲームをする、その形式の一つではないか。

東浩紀は『ゲーム的リアリズムの誕生』内で美少女ゲームとユーザーによる受容(二次創作などの展開含む)を語る際に「小説のようなゲーム」と形容したが、今でもしっくりくる表現だ。受け手が小説のようにゲームに触れて、各々がフィードバックする環境は、きっと今の方が栄えているのだろうが、一方的に要約しては与えるというまとめサイト的啓蒙は昨今になってからのものである。そこで2000年代前半の個人サイト(『ゲームを語ろう』、『薔薇はあこがれ』など)でゲーム批評を読んでいた身としては、あの時分を再現ではなく再創造してみたくなったのだった。いまや過去のゲームソフトが振り返られるのは〇〇周年経過か、または無難なHDリメイクが発表された時くらいだが、そんな時代にゲームとのアナクロな戯れ方をしている人たちがいてもいいだろう。

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