真の「表現の自由の擁護」勢力

「アイディア」では、「自己責任論」の完全解体のため、どういう具体的な方法があるのか、を提案していく。

政治主張に近い内容にもなってしまうので、危険性には注意。

皆さんは、インターネットなどで「表現の自由を守れ!」と主張する様々な個人、勢力を見たことが有るだろうか?

山田太郎議員など、「表現の自由の擁護」を単一主張点とする政治家もいる。これは一見妥当だが、私がこれまで述べてきた理屈によれば、これは無意味だ。なぜなら、その発言を聞いた「敵」は

「こいつらは表現の自由を、自分のためだけに使おうとしている!」

「嘘をついて、議席を確保しようとしている!」

「そもそも表現の自由は、公共の福祉のためにはときに制限されるべきだ!」

と思い、主張するからだ。これは机上の理屈の話ではなく、これと同じロジックで毎日、インターネット上で論難されている、表現の自由の擁護者は多い。山田太郎議員もその一人だ。そして、一面では真実なので、説得は不可能だ。結局、不毛なる「前提合戦」が毎日開催されている。

「表現の自由」は、知名度が高い人、表現の上手い人、メディアを持つ人、権威を持つ人に有利である。よって、対立者はこっそりそれを、法に引っかからない程度に、削ろうとする。言うことを一切無視するのは基本だが、それだけではない。たとえば、署名活動、抗議活動などだ。相手が政治家などの公人なら妥当性も有るが、まったくの一般人にもこれが行われることは、もはや具体例を上げる必要はないだろう。

そして、これを法で「制限」しようとでもしたら、それは多数派に有利な形で使われてしまうので、状況は悪化する。ヘイトスピーチ規制法などが危険なのもこれだ。法ではなく、市民の努力で、すくなくとも少数派議員程度の勢力で「平和」を直接維持する必要がある。

「平和」は、外部の武力では維持できない。信頼感、つまり、「表現の自由」で損する人々の「損」を担保するべきだ。どういうことか?

例えば、言葉が下手な人が、何か政治主張したいなら、かわりに論点整理し、説得力のある文章を構築し、メディアで代弁して上げる必要がある。これは、一切の内容に関わらず、そうすべきだ。たとえ倫理的に批難されるような内容でも、本人の名前を出さず、自身の名と責任において「代弁」する必要がある。ここまでやって初めて、平等に近づく。

そして、この活動に参加したい人は、「発言能力」が高ければ、いつでも参加できる。どの表現を「代弁」するかは、選んではいけない。自らの政治のためのチェリー・ピッキングであるという疑念が湧くからだ。

特定の政治的立場だけに偏っているようにみえると、疑念が湧いてしまうから、それをなんとか潰す、客観的に評価可能な、ある程度高度なシステム(掲載媒体自体に組み込まれた)も必要だ。そして、対立構造を明らかにするだけでなく、なんとか調停に向かわなければならない。

これを行う勢力を真の「表現の自由の擁護」勢力として構成、徐々に勢力拡大を行うことで、信頼感を増し、市民、とくに少数派の政治への影響力を増大させる。可能なら、議員が参加し、上記を行う必要もあるが、かなりの能力と責任が要求されるかもしれない。

いかがだろうか?これは参加者の能力的にはともかく、理屈の上では実行可能性があると思っている。なぜなら、「表現の自由の擁護」勢力にもメリットがある行為だからだ。理解する側のメリット、これが重要だった。

もちろん、これから論考するように、これは全く容易ではない。かなりのコスト、高度なシステム、多くの人間の努力が必要である。

とはいえ、「動機の欠如」から「能力の欠如」までなんとか話を持ってこれた。あとは我々が能力高めれば、和解の可能性はある。

しばらく、このアイディアを中心に、考えていきたい。



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