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僕が僕である意味。

人間に存在する順位

よく考える。僕が僕である理由はあるのだろうかと。人には順位が存在している。
分かりやすい例では、スポーツや学校のテストなどだろう。

僕は人に比べたらできることが多い方だと思っている。しかし、それは周りを見ればもっとできる人ばかりなのである。プロがいるならアマチュアもいる。上手い人もいれば下手な人もいる。よくわかる。しかし、それはそれである。物事を中心に見れば上手い人の方が重要になるだろう。大は小を兼ねる。

僕が出来ることで言えば、料理·エコクラフト·作業療法·動画制作·女声·TRPGなどだろう。しかし、それのどれを見ても僕よりも上手く歴も長い人も多い。

上には上がいて下からは追い上げられる。
なら、僕がしていることに意味はあるのだろうか。今こうしてかいていることも意味などはないのだろう。

本筋から外れすぎてしまったから話を戻そう。
僕は大谷翔平を名前以上に知らない。プロ野球に興味がないからだ。しかし、多くの人に「尊敬する」「上手い」「憧れる」プロ野球選手は?と聞けば大谷翔平と答えるだろう(無論、王選手、イチローや他のプロを答える人もいる。)
ならば、大谷翔平はもっとも優れたプレイヤーだと仮定しよう。その場合ほかのプロは意味がないのだろうか?そうではないだろう。
順位が存在はしているだろうがある一定のラインまではプロをやっているという意味はあるだろう。付加価値というのかもしれない。

なら、僕はどうだろう。若い全てにおいて中の下。初心者に毛が生えた程度。プロにはなれない。なら価値はあるのだろうか。無いとは言いたくない。それを認めたら全てが終わってしまうからだ。

現実から目をそらして何かを得る。価値は無いのかもしれない。
ただやっているだけそれでいいのだろうか?足りないと思う。
なにかに打ち込み、本気になることが意味があることなのかもしれない。

しかし、もう僕には無理なのだろう。もう、何かを燃やすような情熱的など存在しない。諦めてしまったから


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