『あなたの孤独は美しい』

 本を読んだ感想なんですが、最初に触れたい話があります。
 わたしが小学生くらいの頃から、両親はある宗教(仮に『A』とします)にハマっていたようでした。小さかった頃のわたしは、『A』が宗教であることを認識していないままに施設やイベント(?)に連れていかれ、謎の話を聞かされたり念仏のようなものを斉唱する時間に巻き込まれたりしました。

 文面からお察しかもですが、わたしは『A』が嫌いです。
 『A』が宗教であることは大人になってから知りました。調べてみれば、現代で規模の大きい新興宗教は、有名な「創価学会」のように「○○教」という冠はついていないようです。そういうふうに、わたしの親がハマっている『A』も○○教という名前ではなかったので、小さい頃は親が大事にしているであろうそれが宗教であるという認識はありませんでした。

 平手家は両親・兄・わたしの4人家族でした。小学生の頃、わたしは不登校で、母は重い病気を患った時期があり、父は脱サラして個人事業主としてこれまでと全く違う仕事を始めるなど振り返れば穏やかではありませんでした。兄のトピックスはありませんが、わたしに対して暴力的で抑圧するような態度で接していて、簡単に言うとわたしの好きなものをバカにしながらマウントを取るような人でした。
 わたしの家族は仲良しどころか穏やかですらなく、子供同士も反りが合わず、割と陰湿です。兄もわたしも大学まで通えて、母も病気を乗り越えて今は(多分)健康だし父も仕事を続けられているので、内側にある歪さをわざわざ暴かない限りは表面上問題のない家庭だったと思います。

 その見解は振り返ればこそのもので、大変ななかにいた身としては何かにすがらないと心を処理しきれなかったかもしれなくて、だからこそ両親が『A』にハマったのかも、などと思っています。

 『A』の名前を耳にし始めたころは、現場に行ってイベントをこなすくらいの参加規模だったのに、やがて神棚(?)が家の中に設置されるようになり、『A』の関連書籍が家の棚を占めるようになっていきました。元々は少年Hとか、ハリーポッターがあったと思うんだけど、どこに行ったんでしょうね。
 小学生の頃は言われるがままに『A』のイベントに連れて行かれたりしましたが、中学生くらいになると興味のないところになんか行きたくなくて断っていました。たまに父や母が良いこととして『A』を勧めてきましたが、わたしには「頭がスッキリするよ」などと言いながら脱法ドラッグを一口でいいから試してごらんと勧めているようにしか見えず、適当に流してあしらい続けました。中学生にして既に、『A』に対して不信感すらありました。

 母がパート先の人を『A』に勧誘したことを聞いたり、亡くなった祖父母の供養のためのお布施を求められてお金を渡したら『A』に払うものだとあとで分かったり(名目は供養らしいけど、墓の管理してる寺に払うものかと)、パワハラを受けて仕事を辞めたわたしが落ち込んでいるであろうことを察した時にかけた言葉が「『A』の集会に行ってみると良い」だったりしたので、『A』への不信感は確かなものになっていきました。

 それでも、あくまで信仰の自由だし、生活が破綻するほど金を毟り取られているわけではないようなので好きにすればいいとは思うのですが、どうしても許せないエピソードがあります。
 それは、両親が還暦を迎えた年のことです。既に上京していたわたしは(地元は愛知です)、銀座の三越で買った赤い夫婦茶碗をみやげに実家へ行きました。家族に心を閉ざして感情を見せまいと生きてきたわたしがそんなものを渡すものだから、両親は喜んだ様子で「使っていたお茶碗を割ってしまったからちょうどいい」と普段はみそ汁を入れているお椀に入った白米を食べながら話していました。
 お茶碗選んで良かったな、と思ったのですが、次に帰省した時に夫婦茶碗は使われていませんでした。どこにあるんだろうと不思議に思いましたが、行方が分からぬまま東京に帰りました。本当は茶碗なんて欲しくなくて押入れにでもしまってたのかな、などと想像しました。最悪要らないからと捨てられていたとしても茶碗をチョイスした自分が失敗だから構わないと感じました。
 次に帰省した時、夫婦茶碗がどこにあるのかを発見しました。茶碗は、使用された形跡なく箱におさまったまま、『A』の神棚にお供えの一つとして置かれていました。この事実をどうのみ込めばいいか分かりませんでしたが、わたしは両親にプレゼントしたはずなのに、両親はそれをそのまま『A』の教祖様の偶像に横流ししていたと受け取りました。

 他人とは自分の思い通りにできるものではなく、むしろ思い通りにならないものです。人を所有することはできません。だから、夫婦茶碗をあげたところで使われなくても構いませんでした。
でも、
でも、
思いを踏みにじって他人に捧げちゃうなんてどういう神経なのかなって。


 これを読んだあなたは、わたしに同調してくれたりするのかもしれませんが、どうか何も言わないでください。わたしは「許せないエピソード」と前置きしましたが、許さないでいていいのは、この話の当事者であるわたしだけです。
 そして両親の行いを許せないのと同時に、こんなことを人にさせてしまう『A』そのものが許せないと感じています。むしろ、そうさせてしまった『A』への懐疑的な気持ちの方が大きいです。




 わたしの家族の話をしたところで、表題の本を読んだ話をします。

『あなたの孤独は美しい』とは、去年出版された戸田真琴さん(以下まこりん)の著書です。エッセイです。

 まこりんの説明を簡単に言うとAV女優で、わたしは大森靖子さんきっかけで知りました。まこりんはミスiD2018を受けていて、発信する文章から誠実な人柄とか言語化能力に長けているのを感じられて好きです。
 2018年6月に行った写真展で初めてお会いしたまこりんが「本を出すのが夢なんです〜」と話してくれたことがあって、まこりんの文章が本にまとめられたら絶対読みたいなと思っていたので、著書の発売は嬉しかったです。

 そんなまこりんの初めての著書ですが、読んでみると、序盤から親が「新興宗教信者」である話が書かれています。
 先述したわたしの親のことをはじめに思い出して、それからまこりんの話を読みふけりました。共感というと言い方が浅いですが、彼女の家庭環境にフムフムとなる部分は少なからずありました。彼女について自分を重ねるなんておこがましいですが、頷きながらページをめくることが多かったです。

 ちょっとだけ、立ち読み?できますよ。

 全体を読んで、わたしが家族を許せないと思っている気持ちが、少しは雪解けしたような気持ちになりました。許せないものは許せないけれど、それでもそこに至った気持ちを理解したり聞く用意は持ちたいし、見えている面だけがすべてじゃないし、という感じ。そして、心の距離を離すことに妙な罪悪感を持つことも薄らいだように感じます。
 相手が悪いからと全面的に叩くことは適切ではないと分かっていても、聖人のように無条件に相手を許し切る「正しさ」を持つこともできませんが、「白か黒か」とか「0か100か」みたいな着地でないとおかしいと感じる強迫観念は意識して持たないようにしたいと思います。そして、他人にそれを強いることもしないようにしたいです。根は「器の小さい人間」なので、わたしは気を付けないといけないのです。

 まこりんの文章はずっと優しくて、ただ安易に物事を肯定しているのではなく闇落ちしても闇の中の奥深いところに先回りしてくれるようで、優しさというより誠実さを感じました。本という著者がその場にいないある意味一方的なメッセージを読んでいるはずなのに、双方的であろうと努力してくれていました。
 本を読むと、作られたイメージ像が自分の心の中に同居することありませんか。漫画を読んで、言動がかっこいいキャラの生き方とかメンタリティーがトレースされるような感じで、自分の中にまこりんに似た人格が出来上がってピンチの時に心が沈んでいくのを引き止めてくれるような心強さがあります。良くない考えを持った時に、内なるまこりんを呼び寄せて(こう考えるのが一番良いよね?)などと相談します。書いててちょっと自分が怖いけど、そういうのありますよね?…ね?ね?

 他にも読んで思い出した自分のセンシティブな話とか、あけすけにするにはちょっと気が引ける話もありますが、それらよりも(まあ、話題にしていいんじゃない?)と思った親の宗教の話を取り上げました。宗教の話題が一番センシティブだろとは思いましたが、そういうことにしてください。
 せっかく良い本だったのに、感じたことよりもはるかに少ない量しか言語化できていなくて、それでも文にしてこのザマなのが歯がゆいですが、読書というのは内容を覚えるどころか忘れたとしても、読んだ蓄積が己の魂の配合に含まれ血肉となるので疑いなく「読んで良かった」と思います。大事にしたい一冊です。

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“““オタク”””なので紀伊国屋書店のサイン会行って描いてもらいましたイエイ 家宝です

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