いにしえの人
早朝、
かまどが岩。
大日如来の窟より出でた
景色を眺め、踊り、鎮座する。
いにしえからの人となり、
あの山の向こうの世界を想う。
あの山の向こうには
僕のような暮らしをした、
また別の人たちが暮らしているかもしれない。
集落があるかもしれない。
あの山の向こうには
海があり、
壮大な都があって
ものすごく興奮するかもしれない。
時期がずれれば、
そこはディストピアかもしれない。
きっとそうなっていれば
遅かれ早かれ、
こちらにも何かの影響があるかもしれない。
「栄え」より「廃れ」の方が、
都の人が山に逃れ、来るかんじがする。
都・・・
都はどうやって出来たんだろう?
誰か、力のある人が現れた。
賢い人が現れた。
いや、
絶対に「人」ではない。
「人たち」だ。
一人が力を持っていても、
腕力が強くても、
多くの人は率いれられない。
そうだ。
多くの人の力が必要なんだ。
多くの民が力を合わせなくては
こんな大きな都は創れない。
「腕力」だけではダメだ。
では「知力」とは?
多くの「理」を理解し、利用できる力。
物理的に、心理的に。
民の力を、どうやって利用する?
恐怖を与える?
褒美を与える?
僕は民。
何を望む?
何なら屈する?
一人ではダメだが、
数人いれば文明、人の力を
拡げられるかもしれない。
四方を囲めば好い。
鞭を振るい、
逃げ込んだ場所では飴を与える。
禍を起こし、
禍を収める。
数人の
初動の腕力と
極めた知力をもってすれば
出来るかもしれない。
人は、
山の向こうの
別の世界を想う。
物語を想う。
どんな物語か。
誰かと出逢い、
必ず恋が生まれるだろう。
もしくは桃が流れて来るだろう。
惚れて、
腫れて、
流れ、
常に変わらぬ
何かの「普遍」に帰着する。
物語は、
必ず、
「命」を求めるよな。
そりゃ、僕ら「命」が描くんだから
当たり前か。
では、「命」を求めない物語は
誰が描けるんだろう?
此の身では出来ない。
このみではないかのみ
彼の身、かみ・・・
神なら創れるかもしれない。
でも、まあ、
此の身では無理だよなぁ(笑)
此の身は此処にある。
此の身ではない彼(か)・・・
彼岸に彼の身がいる。
彼の身が此の身を見ている。
此の身で
此の身ではない彼の身を想うと、
彼の身は現れる。
「在る」は在り、
「無い」は無い。
いや、
「無い」と想うんなら、
それは「在る」んじゃない?
古代ギリシャの人たちも
いろいろ考えていたらしいね。
仏陀はそれを一人で悟ったらしいね。
知ってる。
僕、知ってる。
誰かから聞いたことある。
僕、知ってる。
うん。
知ってる限りの
此の身で、
どうする?
踊って、
謳おう。