勝ち組 負け組
こちらのnoteから
想いが派生して
拡がってしまったので、
野外でのドラムの朝練の合間に
書いています。
*******
2000年代前半、
「勝ち組、負け組」という言葉が
世間で使われ、
定着していった。
時には
「そんな生き方では
人生の負け組になってしまうよ」
とか言って励ましたり、
時には
「俺は負け組の人生まっしぐらだ」
と自嘲してみたり。
真っ只中にいた僕たちは
何とか負け組を回避しようと踠いたり、
堕ちていった街の路上で
酒やドラッグを酌み交わしていた。
*******
年月が流れ、
俯瞰してあの頃を思い返してみれば
「郵政民営化」「竹中構造改革」
「フリーターからニートへ」、
民営化の嵐、外国資本に売り飛ばされ、
ベンチャーだとか、派遣社員だとか、
ちょうど日本が衰退していく
実態が現れ始めた
出だしの頃だったんだな。
ハタチそこらの僕は
そこまで俯瞰する力も情報処理能力もなく、
ただ、
戦場の中東へ興味本位で行って
拉致された同い年くらいの若者に
「自己責任」と言わずに
何とかしてあげてくださいよ〜
と、小泉首相にメールを送っていた。
彼に、その後の人生の経験を積む機会は
与えられなかった。
*******
今、「勝ち組、負け組」なんて言葉
使う人いるのかな?
その価値観で言うなら、
日本人のほとんどが
「負け組」だと思う。
「勝ち組」の人達は
日本の資本、資源を買い占め、
僕ら日本人を貧困・・
貧しくて困る状態に
追い込もうとしている。
「誰かの黒字は誰かの赤字」。
勝ち組に成るということは
「搾取する力」に加担することによって、
自分の懐にも利益が入るようなポジションを
獲得する。
と、今の僕は考えてしまう。
光には影があり、
光に居るなら、
必ずどこかで「影」に居る人が
いるはずだ。
手放しには喜べない。
********
例えば、
何らかの事業で、
儲かる立ち位置を確保できる結果を
手に入れたれたとする。
ファンや消費者に支えられて
「成功」なるものを勝ち取った僕は
「みんな」に感謝する。
そして、税金や、経費や、
社交のために
適切にお金を使う。
「勝ち組」です。
お金持ちになりました。
成功の人生を収めました。
めでたしめでたし・・・
となるか?
*******
確かにその事業、人柄、サービスに
多くの人が喜び、有り難がり、
利便性や、さまざまなニーズに応えた結果、
その収益の状態を得られたのだろう。
でも、その成功は
多くの負け組消費者による
収入なき出費によって
成り立った現実があるはずだ。
だって「こっち」にプールが出来たなら、
総量は世界でプラマイゼロの「基本」で考えると
どこかで枯渇が出来ているはずだ。
********
さらに今、GAFAMなどを経営する天竜人たちは
底を尽きて出費の出来なくなった「負け組」たちに
ベーシックインカムという
税金で集めた
国民一人ひとりが安寧に分かち合うための
「国費」を与え、
さらにこれらの巨大プラットフォーム企業に
納入させようとしている動きがある。
といわれる現実に
我々は今、いる。
*******
「勝ち組」は誰かを負かした。
敗者の存在によって
勝者は存在する。
負け組が存在し続けない限り、
勝ち組は勝者の椅子に
価値を付け続ける事はできない。
*******
そこを理解して、
人々は「勝ち組」になろうとしているのか?
お金持ちになって、
何を成したい?
その成し遂げたい事は
「お金持ち」になる必要がある?
お金持ちになると
何が叶えられると思ってる?
お金を持ったら
安心できるの?
その不安感は
ある程度のお金を確保したら
払拭できると思ってるの?
必要なのは
「必要なこと」に
ちゃんとお金を行き渡らせることではなく、
「必要」と思っていることを
必ず行える実行力と、
本当に「必要」なものは何なのか?と、
本質を知る洞察力。
そこに「勝ち負け」の意識や、
「お金」の仕組みが
邪魔になるなら
外していきましょう。
「勝ち負け」で
力が湧くなら
その意識を利用すればいい。
役に立たせることができるような
お金の仕組みに
組み換えればいい。
そうでなかったら要らない。
我、民が主(あるじ)であることに
主(おも)な義がある。
******
お金の力で、
人の命や、自然環境、
天地の恵みさえも
所有と統制の対象にされてしまっている。
山や水が、
外国資本に買われていると聞く。
お金にそんなに力を与えていいのか?
何かの競技の
優勝者だって、
その競技以外の社会では
また別の顔になるでしょう。
*******
この「マネー主義」の競技から
離れて暮らし、
有るものを有り難くいただいていたい。
*******
「お金持ちになれるといいね」
そんな無知な会話を軽口で
投げかけてくる高齢者に
苦笑いを浮かべつつ、
「あなたたちが創ってきた世界で
今、あなたたちはそのような現状で生きている」
と思いながら父母やその世代の方達を眺める。
今のこの世界を
幸せと捉えるか、
不幸と捉えるか、
「想い」がそのまま現れた
世界なんだろう。
そしてこれからも、
僕らの「想い」が
世界に反映されていくことでしょう。
*******
「勝負に切磋琢磨して、
活気ある世界を生きる」
「勝ち負けではない。
そべての存在に価値がある」
どちらの認識が正しいとか、
そんなんじゃないです。
ただ、それらの認識の違いで
どんな現実が現れるのか。
今後も知覚しては
世界に見せてもらおうと思います。
続く