見出し画像

感じてみる。考えてみる。

フェリーの露天風呂から
星を眺める。

あの星になってみる。
あの星の気持ちで
感じ、眺めてみる。

あの星から、
僕を眺めてみる。

ちっぽけな僕を眺めてみる。

考えてみる。

あの星から
僕のことなんて
見えるはずがない。

じゃあ何で
僕からあの星が見えているんだ?

だったら
あの星から
僕のことだって見えるかもしれない。

でも、
よく考えたら、
あの星の中にいる
海にいる
船の中にいる
僕なんて、
僕には見えるはずがない。

でも、
あの星は見える。

だから
地球くらいは見えるかな?

太陽くらいは見えるかな?

太陽が見えたら、
僕はその近くにいるよ。

地球が見えたら
僕はその中にいるよ。

あの星になって
僕を眺めてみる。

ふと氣がつくと
僕がいる。

今、考えていたことは
全部、僕が生み出した
想像だってことに
氣がつく。

僕がいる。
星を見ている僕がいる。

星を、星として
感じようと、
想像を巡らす僕がいる。

向かいのおじさんを
あの星と同じように
感じてみる。

あのおじさんから
僕を感じてみる。

「邪魔な人がいる」
「いい身体してんな」
「ホモだったらどうしよう(うふふふ)」
「ホモだったらどうしよう(うえぇ)」
「怪しいやつだ」
「仲間かな、仲良くなれそうだ」

(笑)
全部僕だ!

あの星と、
あのおじさんの違いは何なんだろう?

おじさんがお姉さんだったら
何が違うんだろう?

あいつになったつもりが、
すっかり僕自身を見ちゃってる。

あの人は
僕をどう感じているんだろう?

あの物は
僕をどう感じているんだろう?

いや、
物は何も感じたりしないだろう。
だって物だもん。

と、
それは僕の思い込みであって、
本当の
あいつ(物)の氣持ちはわからない。

物の氣持ちと想ってみては
自分の氣持ちを思い知る。

あの人は
僕をどう感じているんだろう?

どんなに想像しても、

「そうだよね!そうだよね!」
と相手の同意を得て安心してみても、

あいつはあいつの感じ方で感じ、
僕は僕の感じ方であいつを想像している。

僕の感じで感じているように
あいつはあいつの感じで感じているんだろう。

なにはともあれ
現実は動いている。

この動く、時間のエネルギーの源泉は
僕らの想いの違いの摩擦(寿命あり)や
共鳴、共振、響き合い(寿命なし)
なんじゃないだろうか?

何も動かない、
(いや「何も動かない」
ということは「何もない」と
同じことなのか・・・。
ということは
動きがなければ存在は生まれないんだ)
何も動かないに極限的に近い
通奏低音が在る。

そこに
僕らや、地球や、星たちが
生まれ、消え、生まれ、消え、
響き合っている。

極限の通奏低音=宇宙?

そんなことを考えている僕に
ふと、
朝が来て、
子ども達が起きて、
フェリーから出発しなくてはいけない事実に
立ち返る。

僕が、
今考え、創り出していた想像は、
全て
僕から生まれた
唯(ただ)の想像だったんだ。

これは真実でも真理でもなくて
ただ僕が想ったこと。

でも、
僕が「本当だ!」と思えなければ
「本当」にはならない。

だから、
「本当だ!」と想ったことは、
本当なんだと想うことにする。

そして、
多くの僕らは
響き合いながら
今を生きている。

だから僕が唯(ただ)想ったことも、
あなたが唯(ただ)想ったことも、
個人的世界では本当で、
最小公倍数的にお互いに重なり合えば、
社会的認知として本当となり、
社会的常識も、本当でありつつ
もしかしたら物理的現実との齟齬に
いつか氣付くかもしれない。

それぞれが本当。
実体があるからこそ
響き合い、
不協の和音は摩擦、エネルギーを産み、
ビートとなって時間が流れ、
新しい現実、響きが創り出されてゆく。

個人的な想い描きは
誰かに影響を与えるかもしれないし、
個人的な想い描きは
じつは何かの影響を受けただけなのかもしれない。

この自分の言葉にふと、
「著作権」とかいう
社会的創造物を代表に、
あれやこれや、
分けて分けて分けて
価値を付けて値を付けて・・・。

また話が膨らんでしまいそうなので
言葉の目印をここらへんに付けて、
また何か
整理と創造のための言葉、
綴りますね。

最後まで読んでくれてありがとうございました。

うたが、音が、言葉が、 もし心に響いてくれたなら サポートいただけたら嬉しいです。