「才能」「渇望」壁づたいに歩く
「才能」って
何なんだろう?
「自分」に向いていること生かして
生きていければ
人生の喜びがあるのだろうか?
「自分に向いていること」って
何なんだろう?
自分にしかできないことだったり、
他人より優れていることを
「才能」と呼ぶ。
・・・ということにしようか。
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自分にとっては簡単に
いつもしていることが
他の人にとっては
とてつもなく難しいことだったりする。
「すごいね」
って言われて
初めて気づく。
じゃ、
そんな才能を
生かして、磨いて、
仕事にすれば
他人に、社会に、
喜んでもらえて
お金ももらえるよ。
自分にとっては簡単なことが
他人にとっては難しいこと。
そこを活かせば、
簡単にお金は稼げるよ!
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本当にそうだろうか?
と、そんな疑問を
投げかけたいわけじゃない。
そりゃまた別の問題だ。
簡単にお金を得られる才能と、
お金に変換しづらい才能もある。
それもまた「才能」・・・。
でも、
そっちに話を持っていきたいわけじゃない。
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他人より優れていた。
誰よりも得意なことがあった。
それを見つけた。
それをしてたら
「評価」を受け取った。
それを活かした
「仕事」が舞い込んで来た。
自分では「得意」なことだった。
「簡単」なことだった。
意外と生きれた。
お金がついてきた。
意外と簡単に
「お金」は稼げるものだった。
得意なことをして
さらに才能は磨かれていった。
「名」が
知られるようになっていった。
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これがよくある、
よく聞く、
人生のサクセスストーリーだと
思います。
こんな人が
「有名」だったり
その業界のパイオニア的存在になって
「成功者」として
人々の記憶に残るもの
なんだと思います。
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冒頭に戻り、
「才能」って
何なんだろう?
自分にはやりたいことがある。
表現したいことがある。
それが叶えられなかったら
人生は「無意味」だ。
それはちょっと絶望的過ぎるから
「そこ」へ向かって
歩めなかったら・・・
人生は無意味だ。
仮に、
自分にとって
当たり前のことが
他人にとって魅力的で
「それ、絶対向いているよ。
才能あるよ!」
なんておだてられて、
評価されて、
仕事になって、
忙しく働くことが出来ても、
そこに
「自分のやりたいこと」が
含まれていなかったら、
どんなに辛い日々だろう・・・。
でも、
現代の多くの人が
こんな「才能」を基準に
人生を歩んでいないだろうか?
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才能=得意なこと
を、活かして、伸ばして、
人生を「社会的」に
飛躍させることが出来る。
その中で、
「生きがい」を
見出していく。
とても安泰な人生だ。
ところで、
あなたの「渇望」は
満たされましたか?
そもそも、
何を欲していたかも
自分でもう氣付けなくなってしまい、
そのまま人生を終える人も多い。
そう生きたんだから、
そうやって人生を終えればいい。
今更、どんな手を差し伸べられるのか?
仮にその「渇望」を
思い出せるように導き出せたとして、
その老いた身体で、
何が叶えられるというのだろう?
そして、
子供騙しの「趣味」を提供して、
少しでも両親の健康を願う。
「昭和の時代がそうだった」と、
型を付けておこう。
片付けておこう。
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「渇望」は
無様だと思う。
不恰好だと思う。
無骨で、もしかしたら
不要なのかもしれない。
絶対、うまくいかないと思う。
求めれば求めるほど、
重い足枷を
引きずって歩いているようだ。
その「渇望」と
どう折り合いをつけるか。
どれだけ俯瞰して生きれるか。
そんな「渇望」を
満たしていってあげたいな。
I want to save the Want.
「want」ばっかりだ(笑)。
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「渇望」という抵抗感は
壁を創り出す。
渇けば渇くほど、
その壁は高くなる。
他人から見たら
何でもないその壁を
越えてやろうと
もがいている。
ちょっと冷静になって
客観的に見れば
やる必要もない「仕事」
かもしれない。
だけど、
その「壁」は
「自分」にとって、
何よりも現実感の強い
強固な手触りなんだ。
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だから今、
僕は、
その僕にとっての核心的な「壁」を
何よりも頼りに、
手探りで、
壁づたいに
歩いて行けばいいんじゃないかな?
って。
そんな手法で
やっていこうかな?
なんて想っています。
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「才能」は
よくわからないけど、
僕の人生で表に現したい「渇望」が
制作へ向かわせています。