
お笑いの『間』という技術について
私は『間』を愛しています。
そして同時に『間』も私を愛してくれています。
時に間お嬢の考えを読みきれず雑に扱ってしまい、突き放されてしまうこともありますが、基本的には良き関係を築かせていただいております。
…………。
さて。今回はこの『間』という技術について。
間とは、表現者が真剣に己の表現を極めようと求道を続ける際、ある程度のレベルに到達したその向こう側に必ず待ち受けるものであり、同時に未熟なうちに半端な考えで手を出そうものなら、ただ振り回されて終わるだけの最も高貴な高嶺の花である。
ぼくがこの『間』という技術を芸人としてのキャリア上、明確に使い始めたのは、コンビを組んで数年後あたりの時期からだったと思う。
別に間を間として意識して使い始めたわけではなかったと思うが、なんとなく当時多かったキングコング系のスピード漫才に対して、もっとひとつひとつの言葉をじっくり立てて伝えた方が面白いのではないか、と潜在的に感じてはいたので、それが自然と表現に表れたということだろう。
ただ今になって振り返れば、そもそもそれまでのぼくの人生そのものが、常に身近に間がある人生ではあったのだ。
〜〜〜回想〜〜〜
学生時代、ぼくは学校で一言も言葉を発さないくらい人見知りが強く、暗い子だった。
ある日(小学校4年くらいだったか)、ぼくがあまりに言葉を発さないことで、クラスの一人の生徒が「お前何か喋れよ!」とぼくを詰め始めた。そしてそれをきっかけに他の生徒も次々と便乗し、皆で「喋れよ!」と言いながらぼくを教室の隅に追い詰めるという、わけのわからん時間が始まったのだ。
逃げ場もなく追い詰められたぼくは仕方なく、五十音の代表的なスタート音である「あ」という言葉を勇気を振り絞って小さく発した。
すると、あの喋らないはずの男が喋ったと、まるで奇跡でも目の当たりにしたかのようにクラス中が大盛り上がり。他のクラスの連中まで呼び寄せてぼくに「あ」と言わせるブームが起こったのだ。
あ。そのたった一文字を満を持して発することで、学年中が大ウケ。ぼくは一気に超人気者となってしまったのである。
まあ結局小学生は飽きるのも早いので、数日後には空前のぼくブームはすぐに忘れ去られたが。
〜〜〜回想終〜〜〜
その当時体験した、さんざん黙ったあとの一言を強く引き立たせるという出来事が、直接的に今の芸風のルーツになっているとまでは言わないが、少なくとも根本的なぼくの性質が招いた出来事であることは間違いないし、振り返ればあのときは確かに『間』が味方してくれていたのだ。
そんな性質なだけあり、そもそも口数が少なく(今でも)、音や色などの情報が埋め尽くされているものや空間がとても苦手でもある。
そんな僕が表現の世界に踏み込み、間を武器として使うようになるのも必然だったのだろう。
つまり、こと埋める方向性、足し算の方向性においては人よりも遅れをとってのスタートとなるが、間や引き算の方向性に関しては誰よりも早いスタートを切っていたといえる。
だからこそたかが芸歴20年ちょいの段階で、これほどまでに間と相思相愛となれているのだと思う。
まあぼくと間の惚気話はこの辺にしといて、ここからは間という表現の奥深さについて。
まずお笑いでいうのなら、ただ言葉と言葉の間に空間を空ければ、それで間が成立するわけでは当然ない。
その空間に精神を通わせること。それが大前提であり、『間』とは決して『無』ではない。
そしてそのためには、その前後の言葉にまず精神が通っていなければ、間は成立し得ない。見える言葉の表現がまずできてこそ辿り着ける領域、それが間なのである。言葉の表現すら半端なままで間に手を出そうとし、ただ振り回されて終わっているだけの芸人は多い。
さらにその精神の通わせ方にも、無限の方法がある。
表情や長さなどを極限の集中力のもと緻密に調節し、言葉以上に何かを語らせること。そしてその何かは決して限定しすぎない。限定した段階でそれは間ではなくなるからだ。
つまり見ている人に「この人今どんな感情なんだろう」をある程度自由に想像させることで、それぞれが最も面白いと思える感情や言葉を頭の中で補完する。こちらの『面白い』と、見ている人それぞれの個人的な『面白い』が融合することで最高の『面白い』が出来上がるという寸法である。
もちろん限定の範囲は状況や流れによって変える必要もあるが。
上に書いたのはひとまず代表的な間の例だが、間とはつまり『想像させること』でもあるので、他にも様々な表現法がある。
例えばネタの中に、あえてその場では伝わりきらないであろう言葉や流れを作り出すことで、見た人が後々何かのきっかけで答えを見つけ出したときに、ようやくカタルシスを味わえるタイプの間もある(考え落ちに近いかもしれない)。
要は答えを提示しすぎないということだが、情報に溢れすぎて目移りしやすい現代ではなかなか手を出しづらい表現法ではある。
実際お笑い界には何もかも説明しすぎなものばかりが溢れ、間はどんどん肩身が狭くなっている。まあ賞レース全盛の昨今、その場での点数ばかりを追い求めればそうなるのは必然なのだが、表現者と鑑賞者が共に鍛えられてこそ文化は発展していくものである。だからこそ表現者は間を用いることで、ネタの真の意味での完成は鑑賞者に委ねる必要がある。
そんなお笑い界でも、よく間を用いている芸人は多少なりいる。例えばスリムクラブなどは有名なところだろう。
彼らは良い間を持っているしぼくも好きだが、彼らの使う間はあくまで一種類のみである。
ぼくのモットーは『間に五彩あり』。
実際は黒一色の水墨画でも、描き方ひとつで色を感じさせることができるように、一見何もしていないように見える間でも、表現の仕方により無限の表情を持たせることができる。ぼくはそこにこだわりを持っている。
最近だとキュウなども間をよく使っている。彼らももちろん好きだが、まだまだ間に使われている段階だと思う。ただ向いている方向性自体は素敵なので、頑張って自分だけの間を味方につけてほしい。
また、板尾創路さんなどは強力な間の使い手だし、発想力や瞬発力といった派手でキャッチーな武器が多い分あまり言及されないが、ダウンタウンも実は間の名手だったりする。
極めつけは故・柳家小三治師匠。師匠に関しては唯一現段階でぼくが敵わないと思っている究極の間術師である。
しかしこれだけ挙げてもまだまだお笑い界には間の重要性を理解していない者が多い。情けないことではあるが、上記の精鋭たちと共に頑張って間の価値を広めていくしかない。
ちなみにこれだけ間を愛するようになると、日常生活のあらゆるものに対し、間があるかどうかで見てしまう変な癖がつくようになる。
例えば光や音で埋め尽くされた新宿や渋谷などの大都会には間がない。
皆がでかい声で騒ぎ、壁にもメニューやらポスターやらでベタベタと埋め尽くされている居酒屋には間がない。
自分も色々出てる分大きな声で言いにくいが、狭い空間に人が密集し爆音が鳴り響くライブハウスにも間がない(楽屋の壁がアーティストのサインやらパスやらで埋め尽くされているのもなかなか落ち着かない)。
思ったことをすぐ口に出してしまう人、感情表現豊かな人には間がない。
逆に間があるのは、例えば多くの動物。
中でも好きなのはヒグラシや鶯、カエルなど。
まだまだ謎だらけで、皆が想像を膨らませて遊んでいる(語弊あり)ピラミッドにも間がある。ただし謎が解明されたとき、そこにもう間はなくなってしまう。
秋や冬には間が多い。
感情表現が苦手な人、言いたいことがあってもなかなか言えない人には間がある。
なんと奥深き間。
ちなみに間の真髄を知りたい人は、我が国日本の伝統文化を漁ると良いと思う。そこはまさに美しき間の宝庫である。
ぼくは主に日本画、落語、純邦楽あたりから間を吸収しているが、あらゆる日本文化は間が肝となっており、我々日本人は性質的にもおそらく世界で最も間を上手く使いこなせる民族だと思うのだ。
だから日本の芸人ひいては表現者の皆さん。
最強になりたけりゃもっと間を愛せ。で間に愛されろ。
そりゃあ怖いだろう。ただ振り回されて捨てられるだけの可能性も充分ある。
しかし味方につければ自分を世界最高の表現者に導いてくれる。
勇者だけが抜くことのできる聖剣、それが間だ。
審査員に媚びるくらいなら間に媚びろ。
でなきゃ引き続きぼくが独り占めしちゃうぞ。
だからこれからもよろしく頼むよ、ぼくの愛する間。
いいなと思ったら応援しよう!
