お笑いは100点を取りに行ったら負け
芸人は皆、とにかく誰よりも大きな笑いをお客さんからかっさらおうとする生き物だ。
要はその場における満足度100%、つまり100点を目指してお笑いをやっている者がほとんどである。
最も大きな笑いを取っているお笑いが最も優れたお笑いではないというぼくの考えから見れば、笑い声の100点を狙っている時点でまだまだ未熟なのだが、また別の視点から見ても100点を取りに行くことの愚かみというものが見えてくる。
100点を取りに行くお笑いとはつまり、表現者側にとってやり慣れたスタイルのネタをやり慣れた表現でお見せすること。そしてお客さん側にとっては、安心して何も考えず楽しめるわかりやすいお笑いであること、である。
これらの条件が揃った結果、その場における100点に値する満足度というのは生まれやすくなる。
しかしこれは裏を返すと、表現者側にはチャレンジがなく、お客さん側も想像力で補完する余地がないゆえ、両者共に成長がないことを意味する。
表現者と鑑賞者が共に鍛えられてこそ文化は発展していく。今更言うまでもないことだ。
100点を取りに行くお笑いとはつまり今だけしか見ておらず、お笑いという文化の発展には貢献できないのである。
だからぼくは今、大人のお笑いで必ず自分が作るネタには実験的要素を入れるようにしている(そもそものスタイル自体が実験的ではあるが)。
どんな反応があるか読めないところや、ただ『?』で終わる可能性のあるところなど。
その場での60〜70点くらいの笑いは狙っても(場合によってはもっと低い)、残りの30〜40点はお客さんの想像に委ね、笑いあるいは別の何かでどこかのタイミングで100点にしてもらう。これは長い目線でお笑いという文化のためを思うなら、絶対に必要なことだと思うのだ。
もちろん実験の結果としてその場での100点の笑いが取れてしまったのなら、それはそれで全然良いことだ。意図的に取りに行くのと結果としてそうなるのは全然違う。
変に『60点』など一部だけを拡大解釈して(最近流行りだね!)勘違いしないでほしいところだが、決して手を抜いている(最近話題だね!)わけではなく、自分にとってはそのやり方こそが本気でお笑いに向き合っているということなのだ。型にはまりきって五千万人くらいの先人が通った道を青春真っ盛りのようなテカテカ顔で歩いていく芸人たちよりも確実に難しい道を行っているし、自分のお笑いに正直であるとも自負している。
そういえば最近アイアン・メイデンのブルース・ディッキンソンが良いことを言っていた。
曰く、「アイアン・メイデンはファンを想うあまり、挑戦していないかもしれない」。
そりゃあやり慣れたスタイルをそのまま貫き通せばファンの満足度は得られるだろう。アイアン・メイデンほどスタイルを確立しきったベテランバンドなら、尚更そこは守りに入っても良さそうなところだ。
しかし当然それでは当人に成長がない。やはり表現者たるもの、時にはこれまでのファンを裏切るくらいのチャレンジをしていかなければならない。それで離れていく人がいてもそれは仕方のないことだ。
今のアイアン・メイデンのような揺るぎない立場にありながら、それが言える芸人が果たしているだろうか。
『お互いこれが最後かもしれない』という意識をもってその場の100点を取りに行くことを信念としているなら、それはそれで素晴らしい。金と個人的承認欲求だけで点を取りに行く賞レースなどよりよっぽどましだ。
しかし自らの成長と、お笑い界全体のために実験的要素も入れることを含めて100点という考え方ならもっと素晴らしい。
芸人よ、ブルース・ディッキンソンであれ。