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笑いを取るためにお笑いをやる不純さ

久しいこってす。

というわけでなんと数年ぶりのnote普通アカウント更新である。この数年の間もまあ色々活動はしていたわけだが、どうにもnoteを書くときは(サンリオアカウントもそうだが)気軽にブログ的な書き方ができず、ちゃんとしたテーマを用いてある程度のボリュームをもってお送りしないと落ち着かない性分のため、なかなか更新できずにいた。

しかし自分の中では常に言いたいこと、特にお笑いのことに関しては残しておくべきだと思う考えはそれなりに溜まっていたので、ここはひとつと久しぶりにキーボードという名の筆を執った次第である(ちなみに実際に筆を執ると読めたもんじゃない字の汚さを誇ります)。

まあこの数年の間に私も色々と価値観が変わっているところもあるので、過去の記事と矛盾することもあるでしょうが、そのあたりは成長したということでどうぞご勘弁を。


さて、久しぶりの更新はやはりお笑いのことについて。それも当事者でありながらお笑いを俯瞰で見ることも多い自分にしか残せなさそうな内容なので、なおのこと書き残す価値ありと判断したことである。


まず、自分は音楽や美術が好きで、尚且つインプットの重要性を信じているゆえ(元来のオタク気質もあるが)、芸人の中ではそれなりに色々と鑑賞させていただいている方ではあると思う。そして自分がお笑い芸人であるゆえどうしてもお笑いと比較して鑑賞してしまう癖がある。
そうして比較して見たときに、明らかに音楽・美術に対してお笑いには足りていない要素が多い。

まあはっきり言ってしまうと、完全に文化として負けているのである。

それが当事者として非常に情けなく、悔しいとも感じるので、変えていかなければいけないと常々思っているのだが、そのためには根本から芸人たちの意識改革をしていかなければならないと思うことがまあまあそこそこ意外と山ほどある。

そのうちのひとつとして、非常に皮肉な話なのだが、『笑う』という行為そのものが芸人を狂わせる要因になってしまっていることが挙げられる。

まず、お客様の笑い声というのは、芸人にとってこの上なく気持ちの良いものである。圧倒的に満たされる承認欲求。自らの存在意義を確認できる瞬間。その気持ち良さたるや、もはや一種の麻薬といっても良い(何もかも説明しなきゃいけないこのご時世だからこそ一応言っておくと、私はお笑い以外の麻薬をやっていません)。
そしてそれがあまりにも気持ちの良いものゆえ、一度味わってしまうとさらなる量の笑いを欲するようになる。中毒である。

そしてその欲求はいつしか、『笑いを起こすために何をするか』という考えに向かっていくことになる。

これが問題なのである。

結果を見据えて自らのやることを決めるのはビジネスマン的志向であり、それはいわばマーケティングを行っているだけなのだ。
お笑いをビジネスとして見ればそれが正解なのだろう。しかし表現者・アーティストとしてはそうであってはならない。
表現者・アーティストとは何か。それは需要など二の次に、自らが身を置くジャンルを通して何を伝えたいか、何を表現したいか。いわばエゴが先に来るのが純粋な表現者でありアーティストなのである。

今のお笑いの世界にはアーティストが極端に少ない。なんなら『アーティスト』という自負を持つこと自体が少々恥ずかしいことのような風潮すらある。その結果お客さんに媚びたお笑いをやる本当の意味で恥ずかしい芸人が非常に多くなっている。

賞レースの影響も多分にあると思うが、わかりやすく目に見える目標を芸人に与えてしまったことで、より結果を見据えたお笑いを皆がやるようになってしまった。自分の中のお笑いを裏切り、審査員に言われた通りに変えてしまう芸人。時代に合わせ効率化重視で内容を伝えることばかりに終始した芸人。

需要に応えることを重視しているため、その場の笑いの量でいえば当然相応に大きくなる。これは一見するとお笑いが盛り上がっているように見えるのだが、エゴがない分、オリジナリティに欠ける。よく見ると実は皆似たようなことばかりやっているのが現状だ。
つまりどんどんわかりやすく、型にはまったお笑いばかりが残っていき、芸人もお客さんも鍛えられないため、長い目線で見ると実は文化としては廃れていっているのである。
このままでは永遠にお笑いは大衆向けの娯楽でしかなく、ただでさえ昔から低俗な文化として見られがちなのに、いつまで経っても音楽や美術と並ぶ芸術として扱われる日がやってこない。

どれだけ身内で形式的に勝った負けただのとやっていようが、視野を広げれば根本的に勝てていない世界があるのだから、本当の意味で戦うべきはそこなのである。

『笑い声』というこの上ないご褒美がその場ですぐに与えられてしまう、お笑いならではの弊害だ。そして残念ながら芸人のほとんどがその現状を自覚していない。

もちろんビジネスマン的志向、いわば商業主義的志向が文化を支えるひとつの要素にもなっているのは事実だし、その人なりの明確な信念や美学をもってそのスタイルを貫いているのなら良いとは思う(かくいう自分もコンビではエゴを封じ、完全に商業主義に振り切ってやっていた)。
要は偏ってしまうことが良くないのだ。

もちろん単独ライブなどの味方ばかりが集まる閉鎖された空間では、それなりにエゴに走ったものを生み出している芸人もいるのだが、お笑い界自体を変えていくという点で、それはあまり意味がない。
音楽の世界でポップスやロックだけでなく、売れなくともブルースやカントリーやボサノヴァといった様々なジャンルが世間でしっかり認知されているように、その場で受けようが受けまいがそいつなりの正直な表現というものを、大衆の目につく場所でどんどんやっていくことに意味があると思うのだ。それが例え9割の人が白けても、たった一人でも価値を見出してくれるお客さんや、たった一人でも影響を受ける芸人がいれば、それが新しいジャンルが生まれる第一歩目になるのだから。

つまり新しいジャンルを生み出していくためには、『笑い』という領域からの脱却を試みていかなければならない。笑わせることの専門家である我々にとってそれは非常に難しいことだし、それを自覚できている自分でさえいまだに笑いに逃げてしまうこともある。結局それが一番簡単だから。

まあだからといって今後気を使って私のやることで笑わずにいる必要は全くなく、あくまでこちら側のスタンスとしてあざとく笑いを取りには行かないということだ。正直な表現をした結果として笑いあるいは他のリアクションは起こるものである。

大衆の需要とかけ離れたところに本来の自分のスタイルを持つ者ほど、そのエゴを受け入れてもらうのは非常に困難だ。はじめのうちは受け入れられず、心が折れてしまいそうにもなるだろう。
しかしそれは伝えようとしていること自体が間違っているわけではなく、ほとんどの場合、表現力が追い付いていないだけである。経験を積み、表現力が伴ってくれば必ず一定数の人には届くようになる(その反応が『笑い声』なのか、また別の何かしらなのかはやっている方向性によるが)。
そうして真のオリジナリティというものは完成する。

なので芸人たちには今一度自分を、お笑いを見つめなおしてもらいたいと思う。本来個性こそが最も重要視されるべき表現の世界において、同調圧力に麻痺してはいないか。自分のお笑いに対して嘘をついていないか。

僕はやはりお笑いファンではなく、お笑いを愛している身なので、お笑いをある種の生涯の伴侶として、良い面も悪い面も含めて向き合っていく覚悟を持っているつもりだ。
だからこそ数十年後のお笑いのためにも現状のままで良いとは全く思わない。

そのために必要だと思ったことを書かせていただいた。まあ一人一組の心にでも届けば。


それにしても先日大人のお笑いで出たライブ、受けたなぁ。ちくしょう気持ち良かった。


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平井“ファラオ”光🤠普通アカウント
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