見出し画像

お笑いを学ぶためにお笑いを見る愚かみ

昨今、芸人が自ら『お笑い大好き』を自称することが多い。

そのニュアンスの違いはそれぞれあるだろうが、僕個人的にはその考え自体、そこそこ危険思想だと思っている。

まあもちろんお笑いをやっている以上、お笑いが好きなのは大前提だし(嫌いなのにお笑いをやっている奴がいるとしたら其奴は相当見込みがある)、芸人として一見それは美徳のようにも見えるだろうが、わざわざ手放しにお笑い大好きを公言するほどの温度の芸人は、アブねえ。

というのも、彼らの多くに共通する印象として、『多分にファン目線が混ざっている』ことと、『現状のお笑いに完全に満足しきっている』ことが挙げられるからだ。

そんな彼らは今のお笑いが好きであるゆえ、多くの芸人のネタを見る。そして好きであるゆえ、そこから影響を受ける。

そうして多くの芸人のネタから影響を受けてきた彼らが生み出すお笑いは、ものの見事に自らが見てきた大好きなお笑いそっくりなのだ。お笑いファン芸人の愚かみはそこにある。

確かにお笑いからお笑いを学ぶことはできないことはない。どのような流れと発想、リズムを生み出せば今のお客さんは笑うのか。そんなお笑い界の流行を把握し、それを実現できる程度の力がつけば、ある程度の笑いは約束されたようなものである。まだ芸歴が浅いうちや、賞レースなどのアカデミックな世界で好成績を修めることを目的とするなら、そのあたりの学習も意味はあるだろう。

しかしこと表現の世界において最も重要なのは言うまでもなく『オリジナリティ』である。そのオリジナリティを培うという点において、お笑いを見てお笑いを学ぶなど愚の骨頂(GU no KOCCHOW)である。

自らのオリジナリティを生成するためには、自らの専門とするジャンル以外の世界を積極的に見なければいけない。音楽、美術、演劇、スポーツ、なんでも良い。他ジャンルを鑑賞し、そこから影響を受け、そのエッセンスを自らのお笑いとブレンドし吐き出すことでオリジナルは生まれるのである。

注意しなければいけないのは、他ジャンルを鑑賞するにしても、他の芸人も見ているようなところは避けた方が良い。音楽にしても映画にしても、なぜか芸人に共通する好みというものがあり、皆同じようなアーティストや映画ばかり見ているのが現状だ。そしてそうなると必然的に価値観までもが似通ってきて、そうなると当然自らが生み出す笑いも周りと似たようなものになっていく。結果ジャンルの偏りが生まれるのである。本末転倒(HON-MATSU TENTOH)である。

なので、なるべく他の芸人が見ないようなジャンルを見ること。あるいは他の芸人と同じようなジャンルを好きになってしまったら、誰よりもそのジャンルを深く知ること。そしてその真髄を知り、そのスピリットをお笑いに持ち込むこと。その先にオリジナルはある。

重要なのは、とってつけたような『◯◯芸人』『◯◯キャラ』のような個性の打ち出し方は、真の意味での個性とは言わない。別に形から入っても全然いいが、上に書いた通り、真髄やスピリットを理解し噛み砕くことで(例えば音楽が好きならトークに音楽的なリズムが生まれたり、絵画が好きならネタで描く情景が絵画的になったり)、自然と自らの表現に表れる。それが個性というものである。
まあ売れるためには薄っぺらく形から入らないといけないわけだが。

現代のお笑いは、あえて見ようと思わずとも芸人として活動していれば勝手に色々入ってくるものである。笑いの流行を把握する意味で見る価値はあるが(その点でぼくはもっと見た方が良いのだけれど)、あまり積極的に見過ぎてしまうと、行く末はただの量産品芸人だ。
基礎を学ぶにしても、落語を見た方がはるかに得るものも多い。

お笑いファン芸人には変えていく意志と力がない。ゆえに大好きな芸人たちに囲まれ、大好きなお笑いを楽しくやれればそれで良いのである。
お笑いを愛する芸人はお笑いを甘やかさない。ゆえに悪い部分や足りていない部分に向き合い、変えていくため、良くしていくための行動をする。

前者も後者も生み出すものはあろうが、長い目線で見たときにどちらがお笑いに必要な存在か……。


よろしければお願い致します。お気持ち大切に使います。