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なぜ芸人はカバーをやらないのか
先日、大人のお笑いのライブで落語の演目『地獄八景亡者戯』の朗読カバーをやった。モチーフにしたのは桂米朝師匠のバージョンである。
元は1時間を超える長編落語だが、20分以内に凝縮し、本の中身も現代に合わせ色々変えているため、正確にはカバーというよりオマージュに近かったと思うが、個人的にお笑いの世界にはもっとカバーという文化が広まるべきだと思っているため、カバーと言わせていただいている。
登場人物が頻繁に入れ替わるので、3人でいかに混乱させず演じ分けられるか、そして朗読というスタイルゆえ、いかに動きなしでその世界をイメージさせられるか、何よりいかに米朝師匠とは違うアプローチで面白く見せられるかという点で、非常にチャレンジングなネタであった。
ところでなぜお笑い界にはカバーという文化がほぼ見られないのか。
実は答えは簡単である。芸人の価値観だと過去のネタをカバーすることは、つまりアイデアのパクりとして認識されてしまうからだ。
要は自分の実力で笑わせているという感覚が薄くなってしまうのである。
しかしそもそもカバーの意味とは何か。音楽の世界には当たり前のように浸透している文化ゆえ、音楽好きには当然のように理解されているところだが、同じ楽曲をオリジナルと違う表現で見せることにより、自分の表現者としての個性を浮き彫りにするという意味がある。
我々舞台人にとって最も大事(にすべき)なことは、言うまでもなく『表現力』だ。しかしお笑いの世界でカバーがパクりとして認識されてしまうというのは、つまりいかに現代の芸人が作家脳に染まっていて、表現よりも台本を重視してネタをやっている者が多いかということだ。
さらに言うなら、今はほとんどの芸人の目標が賞レースであるがゆえ、賞レースで評価の対象にならないカバーをやること自体、時間の無駄という認識なのだろう。
恥ずかしや。
落語の世界でも、カバーという言葉を使ってはいないが、古典落語はまさにそれで、同じ噺でも演者によって全く見え方が変わってくる。落語の最も面白いところのひとつだと思うのだが、そもそも現代の芸人は落語すらも見ない者が多いので、そのあたりも学べないのだろう。
いと恥ずかしや。
お笑い界の表現の幅および芸人の視野の狭さが、このあたりからも浮き彫りにされてしまっている。
まあ今の芸人の表現力でカバーをやったところで、どれも大した差は出ないであろうことは目に見えているが、それでも作家でなく舞台人としての矜持を持ちたいなら、台本よりも表現に向き合えい。
カバーという文化は、絶対にお笑い界にもっと必要なのである。
いと必要なのである。
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