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ある女の深情け(1) -大江戸奇譚草紙②-
ゆきという女(一)
その日、江戸に初雪が舞った。神無月下旬のことである。
「こんなに早く降るのは、何十年ぶりだろうね」
神田金沢町大谷屋の伝斎は、ふと目を外にやった顔をあげて空を見た。
店売りの品物の配置のことで、あれこれと話していた息子の松太郎も伝斎の言葉につられて外を見た。
そのときである。その女がふわりと現れたのは――。
「ごめんくださいまし」
「……!」
始め松太郎は、二つ下の妹すずが、生き返ったのかと思ったのである。生きていれば二十二になる。
女の名はゆきといった。
年格好はよく似ていたが、ゆきはその名の通り透き通るような白い肌を持つ瓜実顔のすっきりした美人だった。
「こちらは蒔絵師(まきえし)・大谷伝斎さまのお店でしょうか」
「あたしが伝斎だが」
「弟子にしていただけないでしょうか」
ゆきという女は、いきなり言った
「お前さんがかい?」
伝斎の声が高くなった。ゆきは蒔絵師・伝斎への弟子入りを希望して、はるばる武州川越から江戸へ出てきたという。
(身の程知らずな……)
始め松太郎もそう思った。
松太郎は伝斎の独り息子で、跡取りでもある。今年二十四歳になる。蒔絵の才に優れ、年は若いが、他に三人いる職人の中でも中心的な役割を果たしていた。むろん皆伝斎の弟子である。
伝斎は大谷屋という暖簾(のれん)も出していた。できあがった物を店売りしているのである。
今日でいう薄利多売を目指したことから、時流に乗って店はけっこう繁盛していた。帳場には伝斎自らが座る。
「わしは女の弟子はとらぬ」
とっとと帰れ、と言わんばかりの伝斎だった。
近頃は江戸の暮らしも諸事緩やかになって、女の才が世の中に活かされるようになってきた。
髪結いが良い例で、その昔は男ばかりだったが、今は女髪結いが、堂々と看板を上げる時代であった。
「師匠。そう剣突(けんつく)を食わせては、可哀相だ」
松太郎は、実の父とはいえ、店や職人部屋ではちゃんと〈師匠〉と呼ぶ。
「おまえさん。蒔絵師の弟子入りを望むなら、蒔絵の心得はあるんだろうね」
ゆきと名乗った女へ、松太郎はやんわりと訊いた。生来の気の優しさと川越から出てきたことに同情し、妹のすずに似ているところにも惹かれたのだろう。無碍に追い返すのが気の毒に思えたのだ。
「いえ。これから学ばせていただきたいのです」
「ちょっと、薹(とう)が立ち過ぎているんだよ」
伝斎は露骨に顔をしかめた。
伝斎がそう言ったのは、女の盛りのことではなく、職人への弟子入りのことである。本来は、もう少し小さい頃、十二、三歳頃から始めるのが一般的だと言いたかったものだろう。
「気分を悪くしないでおくれ。お前さん、その年で弟子入りを望むからには、絵の一つくらいは描けるだろうね」
松太郎がでしゃばりを承知でそう言ったのは、ゆきに対して、むしろ助け船を出すつもりだったのである。
師匠と頼もうという人に、露骨に嫌な顔をされて追い出されるよりも、むしろ才がないからと断られる方が、ましだろうという気持ちからであった。
「はい」
ゆきは小さく頷いて下を向いたが、それは自信の無さを表すものではなかった。何かを決意する風だった。
「これでは駄目でしょうか」
ゆきは懐から折り畳んだ紙を出して広げてみせた。
「ほう。雪景色かい。見事だねえ」
松太郎は感心するように見たが、
「お前さんが描いたものなのかい」
伝斎の目は疑わしそうだった。
「師匠。どうでしょうか、この場で一つ下絵を描かせて、その出来を見て判断するというのは」
松太郎が取りなすようにやんわりと言った。
「女にいい下絵が描けるわけがないじゃないか」
「そう決めつけるのもどうしたものでしょうね。北斎先生の娘も今じゃ十分絵師として名が通っている」
北斎とは浮世絵師葛飾北斎のことで、その娘というのは、お栄こと〈葛飾応為〉のことである。
「昨今は女とはいえ、男にも負けませんよ」
「お前がそこまでいうなら、まあいいだろう。ゆきさんと言ったね。お前さんがもっとも得意とするものをここで描いてみなさい。花鳥風月なんでもいい」
伝斎は不承不承に肯いた。
(続く)
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