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『マチネの終わりに』第八章(6)
週の半分ずつ、二つの家庭を行き来しながら、彼はどんな考えを自分の中で育んでいくのだろうか? ある程度成長すれば、物の見方も相対化出来る。しかし、それまでは、何を信ずるべきか、混乱し、悩むことも多いだろう。教育方針を巡っては、リチャードとも、将来的に深刻な意見の相違があるかもしれない。
いずれにせよ、現状では、家庭環境に関する限り、自分よりもリチャードの方が断然整っていることは間違いなかった。
何か新しい仕事をしたいとは考えていたが、ケンの母親として、何をすべきかということを、洋子は以前よりも強く思うようになった。
「君の幸運を祈ってるよ。」
と、リチャードは、その真意を疑わせない表情で言った。洋子は、その「幸運」というありきたりな言葉の意味を噛み締めながら、
「ええ、あなたも。ヘレンとうまくいくことを祈ってる。」
と笑顔で応じた。
*
リチャードとの離婚が成立し、独り暮らしを始めて一週間ほど経った頃、洋子は久しぶりに、記者時代の同僚のフィリップから連絡を貰った。今年からまたバグダッド支局にいるらしく、今は彼自身が設定した例のルーティーン通りに、六週間の勤務の後、パリで二週間の休暇中だという。簡単な近況報告のあと、メールにはこう書かれていた。
「悲しい知らせを一つ伝えなければならない。
イラクに残っていたジャリーラの両親が殺害された。君も知っての通り、ジャリーラは家族をフランスに呼び寄せたがっていたけれど、手遅れになってしまった。まったく言葉もない。
今のイラクは、君がいた頃よりも更に混沌としている。アメリカ軍の撤退はもうじき完了するが、これは完全な敗走だ。状況は酷くなる一方で、何の改善の兆しも見えない。政権側のスンナ派の弾圧は苛烈で、これがどんなしっぺ返しを招くことになるのか、考えるだに憂鬱だ。
第八章・真相/6=平野啓一郎