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『マチネの終わりに』第八章(17)
七月いっぱいを長崎で過ごすと、三人揃って、飛行機で東京に移動した。
洋子の母は、横浜に住む友人に会いに行くらしかった。洋子とケンは、東京に更に二泊、滞在する予定だった。
「あなたたち、何をして過ごすの?」
母は、空港で洋子に尋ねた。洋子は、一つには移動続きのケンの体調を心配して、その曖昧な三日間という余裕を設けていた。幸いにしてケンは元気で、もし洋子が、東京で誰かに会う予定でもあるのなら、その間、面倒を看てもいいと母は言っていた。
洋子は、代々木の白寿ホールで開催される蒔野のコンサートに行くべきかどうかを迷っていた。彼の新しいデュオのツアーの記事を目にして以来、彼女はずっとそのことを考え続けてきた。
当初は、全国八カ所で開催される予定だったが、好評のために更に四公演が追加となり、東京公演は八月二日となっていた。長崎から東京への移動は、その日に間に合うように飛行機の手配をした。
既にチケットは完売で、当日券を求めて並ばなければならず、結局、聴くことは出来ないのかもしれなかった。
一人のファンとして、会場で彼の音楽を楽しむだけならばと洋子は考えていた。終演後には、CDの即売サイン会も予定されている。それに並ぶべきかどうかは、演奏中に結論を出せば良い。昔の友人として、改めて、ただ彼がサインを書き終わるまでの一、二分、言葉を交わすことが出来れば、自分の過去も変わるのかもしれないと漠然と思っていた。
洋子は勇を鼓して、とにかく、当日券だけは買いに行ってみようと、母にケンの子守を頼んだ。
母は、娘の仔細ありげな様子を察して、特に訳も聞かず、
「行っておいで。ケンちゃんを独り占め出来てうれしいわ。」
と頷いた。
洋子は、早めにホテルを出る予定だったが、いざ夜までのケンの準備となると、思ったよりも時間がかかり、挙げ句に、置いて行かれると察知したケンが大泣きし始めてしまい、代々木八幡のコンサート会場に到着した時には、既に当日券の売り出し時刻を過ぎていた。
第八章・真相/17=平野啓一郎