『マチネの終わりに』第七章(44)
洋子の存在が彼にとって良い作用を齎さないということは、誰かが冷静に見極めなければならなかったのではないか。そんな苦し紛れの理屈を捻り出して、仕舞いには、こう自分に言い聞かせるのだった。――自分がその役目を果たした以上、何があっても、蒔野の復帰を実現しなければならない、と。……
早苗がひたすら待つことに徹していた半年を経て、蒔野はさすがに、彼女の自分に対する肩入れの意味をもう疑わなかった。最初はまさかと打ち消していたが、よくよく周りを見てみれば、どうやら気づいていないのは、彼一人であるらしかった。
自分は彼女に愛されているのかもしれない。それも、もう随分と以前から。――そして、洋子を不可解なほど意識していた早苗の態度も、振り返ってようやく理解したのだった。
奇妙なことに、蒔野は、早苗を恋愛相手として、ただの一度も意識したことがなかったが故に、却って彼女と結婚するという発想へと飛躍することが出来た。
彼は、自分はもう、洋子を愛したように誰かを愛することはないだろうと思っていた。そんな早まった考えは、十代の少年の、瑞々しい失恋にこそ相応しいようであるが、その実、彼は、四十歳という年齢の故に、むしろ無知とは真逆の静かな諦念によって、ゆっくりとそう結論を下したのだった。
四半世紀ほどの年月を、恋愛する動物として生きてみた経験から、洋子のような人間が、もう一人いると信じ、その相手がまた自分の前に現れるという考えは、彼の心を気持ち悪くくすぐって、ただちに払いのけられてしまった。
もしまた愛が可能であるなら、それは何かまったく異なる性格のものでなければならない。今の自分に相応しい、もっと現実的で、結局のところ、運命的な。――
ギターを弾かなくなり、荒廃してゆく一方の生活にも、うんざりしていた。自分の人生は、いつの間に、こんな妙なことになってしまっていたのだろうか。どうにか元通りに立て直さなければならない。今はそういう時で、しかも、そのために協力を惜しまないという女性が一人いる。
第七章・彼方と傷/44=平野啓一郎