![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/63608855/rectangle_large_type_2_ff8c902306c1994406e4cdd270b4b5bc.jpg?width=1200)
『マチネの終わりに』第七章(49)第八章(1)
早苗は、動揺した様子だったが、すぐに笑顔になった。そして、フライパンの火を止めると、蒔野と向かい合った。
「――子供が出来たの。病院に行ったら、三カ月だって。」
蒔野は目を瞠った。
「いつわかったの?」
「一週間前くらい。コンサートの準備に集中してるから、せめて初日のあとに言おうかと思ってたんだけど、あー、言っちゃった。」
「そっか。……ごめん、気がつかなくて。」
「ううん。わからないもの、まだ見た目では。――喜んでくれる?」
「くれるも何も、喜んでるよ! ちょっと、びっくりしたけど。そっか、……良かった。」
「じゃあ、わたしとこの子、二人分抱きしめて。」
どことなく不安げに打ち明けた早苗を、蒔野は気遣いつつ抱擁した。
人生が、また一歩、先に進んだことを感じた。そして、昨夜以来、再び昂じていた洋子への未練を、彼は今度こそ断ち切らねばならないと自らに言い聞かせた。
今日のコンサートは、この生活のためにも成功させなければならない。――蒔野は、胸の内で呟いた。
◇第八章 真相(1)
洋子とリチャードの離婚を巡る話し合いは、アメリカでの通例に従って、双方が弁護士を立て、裁判所を挟んで進められた。
洋子は、別れたいというリチャードの意思を理解し、この三年にも満たない短い結婚生活を終わらせることに同意した。彼が一足飛びに、離婚まで決意していたことには気がつかなかったが、ヘレンの存在を知って納得した。単なる不倫の相手というのではなく、リチャードは彼女と再婚するつもりだと打ち明けた。動揺がなかったと言えば嘘になるが、洋子は彼の裏切りを咎めなかった。
唯一の懸念は、ケンの親権だった。リチャードの説明では、離婚後も共同親権制が採られるアメリカでは、家庭内暴力といった特別な事情がない限り、どちらかが親権を独占することはあり得ないらしく、実際に、洋子自身が調べ、担当弁護士に相談したところでも同様の回答だった。
第七章・彼方と傷/49 第八章・真相/1=平野啓一郎
----------
『マチネの終わりに』読者のみなさまへ
今後の『マチネの終わりに』についての最新情報、単行本化のことなど、平野啓一郎よりメールでお伝えします。ご登録お願いします。
登録はこちらから