『マチネの終わりに』第七章(41)
蒔野は、会えば会うほど武知を好漢だと感じ、その「きちんとした」という言葉がピッタリの演奏も信頼していたが、それがまた、彼の音楽活動を行き詰まらせていることもわかるだけに、折々、やるせない気分になった。
遠慮すべきことでもないので、蒔野は気を遣いながらも三曲のうち二曲はリハーサル中に話し合って楽譜に手を入れ、もう一曲のラヴェルのピアノ協奏曲のアダージョは、一旦引き取って全面的に書き直すことにした。
オーケストレーションに妙味のある長い曲なので、ギター二本で演奏するというのは、そもそもかなりの難題だった。蒔野は一旦は、「俺も大好きな曲だけど、ちょっとダルいね?」と諦めかけたが、武知がどうしてもと拘っているらしい曲なので、最初のピアノのパートをすべて独奏にするなど、極力彼を目立たせるように全体を再構成した。
本番が近づいてくると、蒔野も次第に口数が少なくなっていった。
今までなかったことだが、眠れない日が増え、夜中に起き出して四階のリヴィングで映画を見ながら寝る悪い癖がついた。早苗が朝、三階の寝室から上がってくると、ソファの上で眉間を強張らせたまま、今にも破れそうな薄い眠りに包まれた蒔野の姿をよく目にした。
蒔野にとっては、実に二年半ぶりとなるコンサートの当日の朝も、早苗は、そんなふうにして、テレビを小さな音でつけっぱなしにしたまま眠りについたらしい夫に、そっとタオルケットをかけてやった。
蒔野の音楽家としての復活に、最も感動しているのは、言うまでもなく彼女だった。
二年半もの間、この時をどんなに待ち焦がれてきたことか!
彼女は、蒔野のためならば、どんなことでもすると心に決めて、その傍らに寄り添ってきたのだったが、それは無論、彼を愛しているからであり、同時に、自らの犯した“罪”の償いのためだった。
あの日、洋子に偽りのメールを送った瞬間から、早苗は、そのあまりにお粗末で、卑しい行為が、いつ蒔野に発覚するかと怯えて、絶望的な心境で数日間を過ごした。
第七章・彼方と傷/41=平野啓一郎
▲ラヴェルのピアノ協奏曲のアダージョ