『マチネの終わりに』第八章(14)
洋子は、《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》のCDと、あの初対面の夜にサントリーホールで聴いた《アランフェス協奏曲》のライヴ録音のCDとを、ジャリーラにもプレゼントするつもりで二枚ずつ買った。
《この素晴らしき世界~Beautiful American Songs》というのは、今のイラクを思うと、憂鬱なアイロニーにもなりかねず、手元に届いたあとで、送るべきかどうか、少し躊躇した。
CDには、蒔野自身も曲の解説を書いていたが、アルファベット表記のクレジット欄を見ていて、洋子は息を呑んだ。目立たない小さな文字で、最後にこう記されていた。
――このアルバムを、親愛なるイラク人の友人ジャリーラと、その心優しい、美しい友人に捧げます。
*
「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
初対面の夜に、蒔野が食事の席で語ったことだった。
洋子は、彼がその日に演奏した《アランフェス協奏曲》のCDを聴き、《この素晴らしき世界》のジャケットに記された献辞を眺めながら、またその言葉を思い出していた。
蒔野はどういうつもりで、この一文を書いたのだろう?
別れて、恐らくは一、二カ月後のことだった。結婚という現実を拒絶し、少し気持ちも落ち着いて、ほとんど思い出そのものに捧げたいというような心境だったのだろうか? 自分自身の気持ちの整理として。
この献辞を添えることで、彼は過去を変えたのかしら? 目を背けたくなるような後味の悪さを、懐かしい回想にさえ堪える明るい悲しみへと。――そうした工夫を、人がしてはならない理由はなかった。彼も自らの生を、前へと進めなければならないのだから。
第八章・真相/14=平野啓一郎