『マチネの終わりに』第三章(8)
「遠慮しておくわ。――最初のクールのあと、パリに戻った二週間で、うまく気分転換ができなかった。ニュースを気にしてたし、原稿も書いてたから。こっちに戻って来てからも、失敗したなってずっと思ってた。保つかしら、あと六週間って。そしたら、あの自爆テロが起きて。……わたし、あと一分長くロビーにいたら死んでた。たった一分。――恐怖もあるけど、時間の中で自分が生きてるってことが、よくわからなくなる。」
「なぜあの時、あの場所にっていうのは、戦地の感覚だな。わかるよ。」
「本当はあと一つ、インタヴューの質問が残ってたの。イラクの今後の見通しについて。――でも、それは他の質問で答えが出てたから、もういっかって。相手もインタヴューを終わらせたがってたし。わたしが引き留めなかったら、彼は逆に死なずに済んでたかもしれない。」
「いずれにせよ、もうしばらくはあそこにいたよ。他の人たちが残ってたんだから。――君は、自分の運を信じることだ。君はここで死ぬ人間じゃないってことだよ。」
気休めとわかっていても、洋子は、フィリップのその言葉に慰めを感じた。そして、「ええ、そうね。」と頷くと、気を取り直して続けた。
「『まったく、今の世の中は、宗教の歴史や一般の歴史が伝えるような、稀有の時代に似ています。こういう時世に昨日今日を過ごす者は、一時にあらゆる事件に出逢うから、すでに幾年を経たも同然です。』――《ヘルマンとドロテーア》の中で、フランス革命の難民の長老が言ってる言葉。本当にその通り。時間感覚もおかしくなってる。」
「俺は長らく戦争報道をしてるけど、戦地でゲーテの引用を聞かされたのは初めてだな。」
フィリップは、煙をフッと上に向かって一吹きすると笑って言った。
「ブッキッシュで、いやな女ね、わたし。」
「ゲーテを知らない女よりは、セクシーだよ。」
「同意しないでしょう、誰もその意見には。」
「若い女が言うとまた別だがね。」
「ヒドいわね。」
第三章・《ヴェニスに死す》症候群/8=平野啓一郎
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