『マチネの終わりに』第八章(3)
【あらすじ】早苗の偽りのメールが原因で別れた蒔野と洋子は、ふとした拍子に相手を思う。洋子とリチャードはケンという子宝に恵まれたものの、相手を心から信頼し合えずに離婚へ。一年半ぶりにギターの練習を再開した蒔野は妻の早苗から妊娠したと告げられた。
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一緒に過ごす時間が半分になってしまうというのは寂しく、ケンが、リチャードとヘレンとの新しい家庭で自分を探して泣いている姿を想像すると、かわいそうでならなかった。どんなに心細いだろう? ヘレンは出産の経験がなかったが、本当にそういう時、ケンをあやしてやることが出来るのだろうか?――
しかし、まだ一歳半だった。どれほど最初は寂しがったとしても、きっとすぐに懐くだろう。もし仮に、親権を完全に失って、もう会えなくなってしまうとするなら、ケンは産みの母親の記憶を一切失って、ヘレンを「本当の母親」として育つはずだった。自分が明らかに、アジア系の風貌の特徴を備えていることを訝りながら。そして、そんな状況にあっても、立派に育つというのは、なるほど、人間の賞賛されるべき逞しさであるに違いなかった。実際、父親がいなくても、「新しいお父さん」に育てられようとも、自分はこうして大人になったのだから。
ケンが寂しがるという不安は、決して消えなかった。しかし、寂しがらないかもしれないという不安もまた、洋子を矛盾したまま、密かに悲しませていた。
リチャードは、話し合いが進むにつれ、憑き物が落ちたように落ち着きを取り戻していった。と言うより、長いつきあいだったが、洋子がよく知っている彼は、そういう人だった。
結婚後の生活が、さほどに不本意だったというのは気の毒だったが、自分自身を省みても、まるで別人の人生を生きているかのように、笑顔の乏しい日々だった。相手のことを心から愛せないという以上に、相手と一緒にいる時の自分を愛せないというのは、互いにとっての大きな不幸だった。
監護権を巡る話し合いに、ようやく決着がついたのは、五月の終わり頃だった。
第八章・真相/3=平野啓一郎