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『マチネの終わりに』第七章(43)
蒔野は気遣いつつも、どこで止めるということもないまま、彼女の厚意を受け容れ、気がつけば、あまりに多くを彼女に負担させていたことを心配した。蒔野の身の回りの世話を焼きたがるというのではなく、祖父江に対して献身的であったことが、却って彼女を身近な存在とさせていった。
洋子との関係が深まっていた時期に、マネージャーとしての「三谷」に募らせていた不満も、いつの間にか消えていて、ある時から蒔野は、彼女に自宅の鍵を渡して、留守中の荷物の出し入れを任せるほど信頼するようになっていた。
早苗はそういう時、彼の不在の部屋に足を踏み入れて、何かしら、普段接している時には感じない、女の体の名残のようなものに触れてしまうことがあった。
恐らく、一人ではなかった。それは、室内に籠もった、そこはかとない残り香のせいかもしれず、男の一人暮らしにしては、あまりに整頓されたリヴィングの景色のせいかもしれなかった。
早苗は、そんなふうに敏感に感じ取ったものに対しては、動揺を禁じ得なかったが、それでもなぜか、洋子に感じたような激しい嫉妬と劣等感に苛まれることはなかった。
最初から深入りする気のない、束の間の関係なのだと思っていたからかもしれない。蒔野を――彼の心を――奪われてしまうという焦燥に苦しむことがなく、ほとんど手さえ触れたことがないのに、自分こそは、今は彼に最も近い存在なのだと自然と信じられた。
手足口病で爪も剥げかかり、掌の皮がボロボロになっている蒔野の手を見ていると、こんな状態では、想像しているようなことは何もないのかもしれないとも思った。深く愛し合っているならともかく、こんな悲惨な手に、軽い気持ちで抱かれる女などいるだろうか?
思うに、洋子は例外的な存在だった。
自分は誰に対しても闇雲に嫉妬して、あんな恐ろしいことをしてしまうわけではない。客観的に見れば、蒔野は明らかに、あの時期、演奏家としての自分を見失っていた。
第七章・彼方と傷/43=平野啓一郎