『マチネの終わりに』第八章(2)
その上で、監護権をどのように分担するか、具体的には養育時間をどう割り振るかといった条件面での話し合いが持たれる必要があった。
「弁護士費用も嵩む。数カ月で済む話に、一年も二年も掛けてお互いに消耗するのは、馬鹿げている。僕は、君に余計な負担を強いたくないんだ。だから、合理的に考えよう。」
リチャードは、不倫の咎は自覚していたが、卑屈になる風でもなく、彼があれほど「冷たい」と批判していた洋子の理知的な判断を頼んで、とにかく、穏便に、速やかにこの問題を片付けてしまうことを欲していた。財産分与に関しては最初から譲歩的だったが、ただ、ケンの監護権に関しては、公平であることに強く拘った。
ケンは、ようやく転ばずに部屋を駆け回れるようになったくらいだった。最近は、洋子が一度、ドアに隠れて「バァー。」と姿を現したのが余程おもしろかったのか、どこに行ってもそれを真似て、物陰を見つけては、片膝に手を突きながら、「ばぁー。」と顔を覗かせるのがお気に入りだった。
テレビに映っている象を見て、「ぞうさん、おっきいね。」という程度のことは言えるようになり、洋子が、「けんくんは、ぞうさん、すき?」と尋ねると、「こわい。」と、別に怯えた様子でもなく、ただ、自分の中の答えはそれしかないといった顔で即答した。ケンは、リチャードとは英語で、洋子とは日本語で喋り始めたところだった。
洋子は、ブログを書く習慣もなく、食事の度に一々写真を撮ってネットにアップしたりする心理が今ひとつわからない“古い人間”だったが、何をするにしても、何に驚いても、「ねぇ、みて!」と母親を振り返るケンの様子から、そういう性質は、人間にそもそも備わっているのかもしれないと思うようになった。
しかしケンは、不特定多数の誰かに見ていてほしいというのではなく、母親である自分にこそ見てもらいたいのだと洋子は信じていた。自分も見ていたかった。夜寝る時には、必ず「ママは?」と探したし、デイケアに迎えに行っても、自分を見て駆け寄ってくる時の表情は、他の誰にも見せないものだった。
第八章・真相/2=平野啓一郎