ほぼ日手帳「365にち」を手に入れ、来年は寛容になろうと誓った。
毎年、弟の誕生日に、「ほぼ日手帳カズン」をプレゼントしていた。
毎日毎日、必ず机に向かい、日記を書く習慣があったからだ。
生まれ変わったら、物書きになるといいよ、とずっとずっと思っていた。
関西に引っ越したのは、弟が小学校6年生の2学期。
それまで、養護学級(特別支援学級のこと。当時はそうゆう名前だった。)で学校生活を送っていたのに、当たり前のように普通学級に突然入れられ、きっと、いきなりサバイバル生活が始まったに違いない。
いきなり普通学級である。地元の小学校が、そういう教育方針だったのだろう。
健常児と一緒に授業を受け、何を言ってるのかさっぱりわからない授業を、大人しくじっと座って聞いていたのだ。協調性のかたまりのような温厚さで。
高校1年生だった私はといえば、元々人見知りで自分から人に声をかけたりできない上に、転校生で制服もひとりだけ違い、関西弁が喋れず、半ば登校拒否状態。人と会話を絶対しない授業だけ受ける、大学生のような授業の取り方をしていた。そのくらい、性格的に環境に適応するのは難しかった。
河内弁のきっつい古典の先生の授業では、どこまでが古典で、どっからが関西弁なのか皆目見当がつかず、古典はアレルギーになった。
現代国語の授業では、標準語が話せるというだけで、教科書を読み上げるようにと何度も先生に指され、これまた嫌いになった。
挙げ句、体育の授業で、当番になって皆の前で号令をかけることすら嫌になっていた。
弟にとってみれば、相当サバイバルだっただろうに、温厚で努力家な彼は、
関西弁を覚え、字が読めるようになり、書くようになった。漢字も少し書けるようになった。(わけわからん授業を聞いていたら、暇すぎて、字を模写したのだろうか。いや、良い先生に出会ったのだな、きっと。)
地元の中学校の普通学級に通い始める頃には、世の中には「英語」というものがあり「アルファベット」という文字があることも理解してしまった。
(大好きだったジャニーズの歌の数々には、英語のようなものがあったけど、抵抗なかったよね。)
環境とは恐ろしい、いや、ありがたい。
お陰で、彼の生涯の日課は、「朝刊のテレビ欄を見ること」と「日記を書くこと」になった。私など、3日として続かないのに。。。
だから、「ほぼ日手帳カズン」は、弟にとって、なくてはならないものになっていた。
けれど、弟が亡くなり、もう「ほぼ日手帳カズン」を買う必要はなくなった。
棺に、真新しい翌年のカズンを入れてあげた。
もう、「ほぼ日手帳」を買うことはないだろうと思った。
ところが、である。
岸田奈美さんのダウン症の弟さんである、岸田良太さんによる手書き数字をあしらった「ほぼ日手帳」が発売されたことを知り、是が非でも購入したいと思い、「365にち」手帳と、バンドつきペンケースを買いに走った。オンラインでは売り切れとなっていて焦り、ロフトの店まで走り他店から取り寄せてもらった。
あーよかった!無事手に入れることができた!と思い、早速、月別の数字インデックスを指で貼ったところ、ガッタガタになった。
こういう作業は、ピンセットを使って、歪まぬよう全集中でやるのが常なのに、
指でペリッと剥がし、貼ってしまった。
真っ直ぐ貼れなかったり、インデックスとインデックスの間が均等にあいていなかったり、いつもならイライラして、無理にでもやり直すのに、
良太さんが手がけたこの手帳では、そのガッタガタの方が味わいがでる!愛着がわく!いいかんじに仕上がったのだ。
不思議だ。
キッチリしていないことを受け止める寛容性が、この手帳にはあるのだ。
弟の、数少ないボキャブラリーのひとつが、
「いいかんじ!」
だった。
君のいう「いいかんじ!」とは、きっと寛容さの表れだったんだね。
この手帳を使うことで、
言葉にできなかった弟の想いに寄り添えるような気がする。
生きてたら、弟も「文字職人」にしてあげたかったな。
ん?「も」「う」「あ」「か」「ん」「わ」を弟の日記から拾って応募してみるってのはどうだ?? 遺作で物書きデビュー?? ちと、考えよう。
岸田良太さん、ありがとう!
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