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世間という砂と空っぽの君

自分の考えていること、持論などを言うことを『我を出しすぎ』『思想強め』『お気持ち表明』と言って嫌がる人が、一定数いる。

そういう人らは『他人の考えを聞く・見るのを許容できない自分自身』については、一体どう思っているのだろう?

私は、そういう人はおそらく『自分自身』にフォーカスを向けた事はないのではと思っている。もしフォーカスを向けているとすれば『自分と同じ・近い考えや価値観の不特定多数』に対してではないだろうか。

何故、他人の個人的な意見を見ると自分は不愉快になるのか。
何故、人の考えを知りたくないと自分は思うのか。
何故、我を出すという当たり前の事を自分は許せないのか。
何故、ただ己の考えや意思を持つ人を自分は思想が強いと感じるのか。

不愉快あるいは嫌いなものというのは、大抵は理由がある。『何となく』という感覚にも、大体は何かしらの理由なり理屈なりがある。もしくは『自分の好みに合致しないものに対して、過剰に許せないこと』に対して、理由があることもある。

私の主観を多分に含むが、これは『自分=世間』と思っている…というのが根本にあるのではないだろうか。日本の現代人には特に強い傾向だと考えており『自分=世間=常識』という、信仰にも似た固定観念に囚われているように思う。

よく日本人は集団主義的と言われるが、本来の集団主義のような人同士の繋がりは現代においては希薄だ。そのかわりに『周り(世間)からどう思われているか』『世間(自分)が許すかどうか』というように、漠然とした一塊の何かに強く依存しているように思える。

この『世間』というのは実に便利で、時と場合によって規模や意思が自由自在に変動するが、ある一定の共通知のようなものがある。これほどに、自身を正当化するのに適した存在はない。

これは私のお気持ち表明だが、他人の考えがいちいち癪に障る、しゃらくせぇと思う傾向の強い人は、一度自分自身というものを見てみてはどうだろうか。

世間という砂を抜いたそれは、意外なほど空っぽではないだろうか。

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ひいらぎみかさ(ひらみ)
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