やってきたコトとやってくるモノ
去年のとある日、「あ、俺が知りたかったことは大体知れたな~」と思った日があった。今まで必死になって調べていた“あれやこれや”に対して自分が納得する答えを持てるようになって、知識欲が満ちた日があったのだ。
こうなってから、急激に色んなことに飽きはじめて、どんどん毎日がつまらなくなっていった。原動力みたいなものが切れたのだった。
自分がこれだ!と思ったモノを積み上げていった先にどうなったかといえば、知らぬ間に型にはまってかたまっていったのだった。
周りが色んな意見を言っても「もう俺は分かったんだ、満足しているんだ、そういう理論に興味がないんだ」と自分の理屈に固執するようになっていった。
これのやっかいなところは、自分が固執していることに気づいていないところであろう。こうなるともう打ち止め。発展はない。
情報がいっぱいとれるような時代になって、自分なりに納得して理論を積み重ねていった先に行き着くところが「自分こそが正しい」という固執であったのなら、それは閉じた世界の王様であろう。
本来は積み上げれば積み上げるほど、自由になるし、どんどん許せるし、開いていくはずなのに、「これはもう知っている」、「本質からズレている」と切り捨てたり、拒否したりしている時は間違いなく閉じている。つまり自分の意見しか見えていないのだ。
カウンセリングで「傾聴」という技法があるが、自分のやり方しかみえていない時は、本来の意味で傾聴はできないだろう。
そこで今まで自分を振り返ってみた。
私は今までずっと、本当の意味で人と出会えていたのだろうか。
本来Aという人とBという人が出会った時には、「C」という全く新しい響き合いが起きるものだが、「A」だけ強かったり、「B」だけ弱かったりと、まるで汽車のように右手と左手がバラバラに主張している。
右手と左手という異なるエネルギーが合掌という形で出会うと、全く違う感覚がやってくる。これが「出会う」ということであろう。
日々色んなモノが自分のもとにやってくる、自分の望んでいるモノ、望んでいないモノ、どちらもたくさんたくさんやってくる。
もし積み上げてきたモノとやってくるモノがぶつかってしまうのなら新しいものをクリエイトできないだろう。
積み上げたものは過去、やってくるモノは未来。
異なる二つのエネルギーが出会うこの瞬間を大事にすれば、過去も未来も超えていける。それが出会うということかもね。