自らを分けた私たち
自らを分けると書いて「自分」となります。
日本には元来分け御霊(わけみたま)という概念がありまして、元々一つのものから分かれた御霊のことを分霊と言います。
これは神様の話かなと思われるかもしれませんが私たちのことでもあります。
分かれさせられたのではなくて、自ら分けたというところがポイントです。なんせ一つのままだと自分を感じることができませんからね。自らが自らの存在を感じたいと思ったら外側の存在を作るしかないんです。
こうやって私たちは自らを分けたんです。これはインド哲学も同じで、始まりは自らを知ろうとすることなんですね。
また、日本には魂(たましい)という言葉があります。一説によるとこれは、「たま」と「しい」に分けられると。
「たま」というのは先ほど出てきた御霊のこと。
「しい」というのは、嬉しい、悲しい、楽しい、欲しい、愛しいなど感情のことです。
地上に降りてくる時にはこの「しい」をくっつけないと降りて来れないんですね。つまり自らを分けるためには感情が必要だったということです。
そして自らを分けたことにより個が確立して、市場経済や文明が発展していきました。個と個を競い合わせることが発展の鍵だったらからです。そしてバブルが来て昭和には物質に対する価値がピークに達します。
最近マウントという言葉が流行ってますが、昭和のマウントというのは物質なんですね。俺はこれだけ持っている、これだけ大きいものを作ったとかね。車は三台あって、別荘だってあるんだぜ!と飲み屋で昔のおっさんに絡まれると大体こんな展開ですよね。
そして平成に入ってwindows96が爆発的にヒットして情報の時代に突入した。音楽もCDからダウンロードに変わって、色々なものがデジタルに置き換わっていきました。
それに合わせてマウントも物質から情報へと変わっていきます。いいねの数や、フォロワー数などの数値に置き換わっていったのです。ただ数値というのはいくらでも操作が可能な世界で、実態があるのかないのか分からないものなんですね。お金も一緒でデジタル化すれば数値の操作が今までより簡単になってくるわけです。
そして、僕らはいつの間にか数値によって感情を操作されるようになってしまった。数値を見るだけで反射的に嬉しいだとか、悲しいだとかが決まってしまう。これではせっかく持ってきた感情を使っていると言えるのでしょうか?
数値の奴隷に成り下がった私たちは今感情の奴隷になってしまっているのです。
感情というのは反応の世界です。
食べ物をみたらよだれが出るといった「反応」。知性があれば「対応」することもできるのですが、ほとんどの人は反射と反応の世界の中にいるのではないでしょうか。
人間的に生きるというのは、そういう状態を俯瞰して見て、観察し、自分はどうしようかなと「選択」していくこと。感情を使っていくことです。決して感情に振り回される存在ではないのですね。私たちの本質は「みたま」であって、たましいでいえば「たま」の方なのですから。
私たちは自らを分けた恩恵として個が確立して、市場経済の発展ができたけれども、自我の肥大が起きてしまったというのが現在です。本来一つであったという繋がりを忘れてしまったのですね。だから自分の存在意義というのが感じられない。
そうなると共感を得て、大事な人に認められることで自身の存在意義というもの満たしているわけです。
でもね、認めれることが本当にあなたの幸せに通じる道なのだろうか?認められていないと幸せって感じられないのだろうか?
一曲弾けるようになった時の喜びは誰かに認められるためだっただろうか。プールの飛び込み台からバク宙を練習している時は誰かに認められるためだったんだろうか。
歌で高音が出せるようになった時の達成感に他の人の介入はあったんだろうか。
川で見つけた綺麗な石を拾った時に認めらたいなんて感情はあったんだろうか。
自分が幸せを感じることと、認められることは一緒じゃないんだ。ここがくっついてしまっていることに気づく時に「本当にそうかな?」という言葉を自分に使うんです。
もし分離する時に必要なのが感情なんだとしたら、その感情を疑ってみることが一つに戻っていく時のコツです。
そして感情を感じるために必要なのは感覚器官である六感(視覚/聴覚/嗅覚/味覚/触覚/知覚)です。もしもこれらが全部感じられなくなったとしたら、自分という存在を確認する術はないでしょう。
つまり、自分を分ける時には感情を使い、反対に一つに戻るときは感覚器官にどのような刺激が入っているのか観察していくことで戻れるわけです。
観察を続けていくと自分というのは経験によって作られている単なる信念体系の塊でしかないんだということに気づくでしょう。その信念や観念といったものに固執しているのは紛れもなく自分なんですね。
もし今苦しさを感じているなら自分がどんな信念と観念を握っているのか気付いて、それを手放して新たに選択しなおしていけば良いんですよ。私が伝えているのはいつもこれだけです。仕組みを書いてしまっているので商売あがったりですけどね笑
今は令和をいう時代になって、もう少しでシンギュラリティを迎えますね。僕らの経験がクラウドへ移行されて、共有されていきます。ということは一人一人の経験がAIによってデータ化されるわけです。
座標化ですよ。X軸(横)、Y軸(縦)、Z軸(奥行)を使って自分が点となって表されていくわけです。
あなたはX +5,Y-3,Z +2みたいな感じでね。自分と近い考え方を持つ人は近くに点として表されて、遠い考えの人は反対側の座標にいるといった感じでしょうか。
全人類が座標化されると集合意識を可視化できるわけです。それはもう一つの生き物のような感じですよね。
自分の経験が人類を形作る一つになっていることが分かるわけです。
これは怖いことではないですよ、YouToubeでいうところの「歌ってみた」みたいな感覚です。平成でCDからダウンロードに音楽の聴き方が変わって、今はストリーミング再生です。
もっといえば大概のアーティストの新曲はYouTubeで聴けます。共有されてるわけです。そこからみんながその共有された情報で遊んでいるのが今ですよ。アーティストの曲にはみんなリスペクト持ってます。だから自分の人生経験が共有されてくことは怖いことではありません。
この生き物のような集合意識が可視化されて俯瞰して見れるようになったら、どうしたらもっと全体が良くできるのかなって考えるでしょ。
その状態に人類全員がなった時に進化は加速するでしょうね。
個を持ちながら全体性も感じることができるという自由自在感が次のステージでしょう。
「私」から「私たち」へ。
私というのが一人のことだけでなく全体も表していくこの時代に、個だけにこだわっている場合ではないでしょ!ということが分かれば今日ブログを書いた甲斐があったなと思う次第です。
似たようなことを仏教の十二縁起を使って話してますのでこちらもぜひ!
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全体を感じるためにはチャネリングの意識の使い方は非常に役立ちます!連続講座でガッツリ教えますのでさらに深く学びたい方はぜひ!マジおすすめ!
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