2024夏一首評07

六歳にべつじんだねと言われてる眼鏡を外したくらいのことで
/乾遥香「チャンネル」

「現代短歌」104号(2024年9月号)

 短歌ってこんなにも、言い方、を入れられるんだよな。っていうことを思った歌です。

 ひとを年齢で呼んでるの【言い方】すぎるよ。おそらく実際にその人物が「六歳」であるということから想像できること、読んでいけること、がたくさんあるのはそうだとして「属性を示す」「(歌の中に)呼び出す」を同時に済ませてるのは【言い方】だなあと思う。思うんだけど、でもたとえば「少年」とかだったとして「属性を示す」「(歌の中に)呼び出す」を同時に済ませてるのは同じはずなのに、それだと【言い方】とは思わなそうなのってなんなんでしょうね。「クソガキ」でも逆に(逆に?)思わない。数値なのが理由なんですかね。
 そういう読者の自問をまで照射しようとしている一首だと思います。ここだけじゃなくてずっと【言い方】の歌なので。

「くらいのことで」って、眼鏡を外すのはそりゃ「くらいのこと」だと思うんですけど、だからこそこうはっきりと「くらいのことで」と言われているとすこし怯む。あえて言う、にはニュアンスが入ってくるから。そのニュアンスを、汲み取ろうとする、ときにはけっこう負荷がかかる。そういう【言い方】が選択されているのが、この歌、なんだと思うんですね。

「べつじんだね」という、このひとからしたら言われた言葉も、つまり【言い方】ですよね。別の言い方もあるってわかるときの、こうとしか言えなかったっていうよりは、これを選んでる【言い方】。「六歳」ね……。

「言われてる」ですよねえ、と思う。「言われる」「言われた」じゃない「言われてる」。若干、客観的な、冷静な、【言い方】。ここがそうだから、この歌は【言い方】の歌になる。

化粧しながら話すリールをじっと見るこうでなければ言えない国を

読み聞かせるわたしの一人三役にも隠しきれないわたしの声だ
/乾遥香「チャンネル」

「現代短歌」104号(2024年9月号)

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