2024夏一首評01

 大学が夏休みに入ったので、一日一首評ということで、ちょっとやっていってみようと思います。歌会でしゃべるときくらいのカジュアルさでいきたいっすね。

ほんのりと日暮れを告げるメロディが最後まで半音ずれていた
/暇野鈴「Commonplace」

https://note.com/oreutoisa/n/nedadb278a466

 短歌読んでるときの僕たちって、目の前の歌から【へん】を探そうとする生理がある、気がするんですね。一般的な感覚と異なる気持ちであったり言葉遣いであったり、あんまり起こらなそうとか起きるはずがないとかそういう出来事であったり。
 この歌はその【へん】を探してしまう読者の感覚を、文字通りちょっとずらしてきている歌だと思います。

「日暮れを告げるメロディ」というのは夕方の5時とかそのくらいの時間に防災無線で鳴らされるやつですね。外で遊んでる子どもたちに、もう日が暮れるから暗くなる前にそろそろ帰りましょうねという、そういうあれです。なんか呼び方とかあるんですかね? そのメロディは地域で決められていつも同じのが鳴っているので、ある日それが「半音ずれて」いたら、いつも聞いているひとにはだいたいわかるわけです。
 いつものメロディが半音ずれている状況は【へん】と言えば【へん】だけど、そうでもないと言えばそうでもない。まあ無線の不調だとかでなんかそういうことくらいあるだろうというくらいですよね。しかし、この歌の読後感として、すごく【へん】な感じっていうのはたしかにある。

 この歌の【へん】は「最後まで」にあるんだと思うんですね。まあこれ自体はむしろ【へん】じゃないことを言っているんですけど。もしもメロディが、ほとんど半音ずれているのに、途中でちょっとだけ元通りで鳴っていたら、それは紛れもなく【へん】な出来事だと思うんですね。人が歌っているとかならともかく、機械で音源を再生しているわけですから、そういうことは基本的に起こるはずがない。僕らはそういうことをなんとなく知っているわけですね。つまり、「最後まで」なんて言わなくてもいいはずなんです、場面を叙述するだけなら。「日暮れを告げるメロディが半音ずれていた」でいい。

 この歌が描く場面は、【へん】なようで【へん】じゃない。だけどすごく【へん】な気がするのは「最後まで」と書かれているからなんだと思います。これによって、たとえば「日暮れを告げるメロディが途中だけ半音ずれていた」というような、本当に【へん】な事態をこの歌の隣に見ることができる。今回はちゃんと「最後まで」だった。だけどそれが「最後まで」じゃないある日がやってくるのかもしれない。そしてそれは世界が【へん】になったことを示す最初のメッセージなのかもしれない。

 ちょっと話が飛躍していってしまいましたが、この歌の目線、「最後まで」をわざわざ語るそのひとの世界認識というのは、この世界が【へん】になるかもしれないという予感を常に抱いているような、そんな世界認識なんじゃないかなと思うんです。その認識が、この歌を通して、読者の側にも一時的に、あるいは今後ずっと、組み込まれるわけです。

 最初読んだとき、ちょっとこわいなと思ったんですね。その怖さの理由がすぐにはよくわからなかった。じっくり読んでみて、ここまで話したようなここまで話したようなことを考えて、ああ、実際こわいんだな、と納得しました。
 僕たちは【へん】を探す。そういう生理がある。でもその【へん】ってなんだろう。メロディがいつもと違って半音ずれているから【へん】? だけど「最後まで」だから【へん】じゃない? そういうことを考えてみると、なんだかよくわからなくなってくるんですよね。

 もしかしてなんですけど、いつもが半音ずれていて、このときだけ「最後まで」あってたんじゃないですか?


対岸をはるかに灯す街並みのどの家が消えてもわからない

しゃぼん玉とんだ その日いくつもの目がそれを見て順番に忘れた
/暇野鈴「Commonplace」

https://note.com/oreutoisa/n/nedadb278a466


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