2024夏一首評03

川の向こうに私と同じようにいる傘をさす人、どう、桜は
/工藤吹「バヤリース」

「短歌研究」2024年8月号

「私と同じように」→「いる」、に、ぞくぞくした歌、です。

 書かれていない「私」と「傘をさす人」の要素がたくさんあるんだと思うんですね、いったん。そしてそこに、その人を「私と同じように」と形容できるくらいの重なりを見出している、ということだと思う。だけどそれがどういうものなのか、読者にわかるようには書かれていない。それゆえに、このひとがその場でしか感じ得なかった言語化されない何かがあったのではないかと思わせる、そういう感覚が【書かれている】と感じます。
 単に川の対岸にいるだけのひとに「私と同じように」というようなある種の共感や連帯感を覚えるというのは、けっこうなこと、な気がします。だから、これをわざわざ言うだけの何かがあるんじゃないか、と思ってそういうことを考えたわけですが、一方で、この「私と同じようにいる」は文字通りそのまま「いる(居る)」ことを言っているんじゃないか、という気もどこかでしてくるんですね。それは何故かと言うと、それ以外のことがあまり書かれていないからです。

 書き得ない何かがあるのではないか、と、そもそも何もないのではないか、というふたつの可能性がせめぎ合いながら、この歌は最後の「どう、桜は」に至る。この呼びかけも、けっこうなこと、ですよね。いずれにせよ、対岸にいるひと、でしかないと思うと、あくまで心内のことだとしても、なんだか急に距離が近くなっている感じがします。(そもそもそのひとへの呼びかけとして読むのかっていうのもいろいろ考えようはあるんですが、とりあえず僕はそう感じました)
 その心的な接近の背景……を考えていくと、やっぱりさっきのふたつの可能性が、きれいにせめぎ合うんですよね。そのバランスが、川を挟んだ向こうとこちらとに分かれる叙景も相まって、そのまま、入ってくる。

「私と同じように」→「いる」 すごいな……。

春の私と逆の手順で枯れきった花をようやく片付けている
/工藤吹「バヤリース」

「短歌研究」2024年8月号

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