出会って通りすぎてゆく
久しぶりに旅っぽいことをした。
家も好きだけど、旅するのも好きだなと改めて思った。
コロナ前は会いたい人にはいつでも会えるし、行きたい場所にはいつでも行けると思っていた。遠くに住んでる家族も友人もいつでも会えるから淋しくなかった。実際そのように生活していたと思う。
そのような考えだったから、東京から地元へ拠点を移した時も特に誰かに挨拶をしなかった。地元から上京した時もそうだったかもしれない。報告のような投稿はしたかもしれない。その程度に考えていたんだと思う。自分と誰かとの繋がりに対して。
SNSやネットがあるから離れていても連絡はとれるよ、とよく耳にする。自分も言っているかもしれない。(仕事ではよく言う)
仕事ではオンラインコミュニケーションのみで完結することがあるので、それはわかる。けど仕事的には問題ないけど、プライベートではそういうコミュニケーションが苦手なんだな、と気づいた。仕事は要件があるから、必要なやりとりをしている感じだし。
けど、プライベートでのやりとりでそれは出来ないと思った。テキストだけで会話をするのが苦手というか。雑談というやつかな。
対面している時の言葉以外の共有が自分の中で大きな部分を占めていたんだな、とこの年齢になって気づいた。ある種、どうでもいいことが大切だったのかも。言葉だけじゃない、何かを大切にしていたんだと思う。
冬の別れから、集中力の低下を感じている。
時間が解決するのだろうか、とずっとぼんやり思っているけど、どうなんだろうか。
なんとなしに、今年は初めてのことをやってみようと年始に思った。
メガネを買って日中もメガネで過ごしたり、黒色以外の服を着たり、ジムに通ったりは自分で決めた。ぼちぼち気負わず続けている。加えてドーナツ屋と宿のスタート。自分が思っていた以上に初めてのことに取り組んでいる気がする。
そのおかげで、外に出るし、よかったと先日おもった。
去年と同じ生活サイクルで過ごしていたら、気が滅入っていたかもしれない。それくらい、最近は家にいるとなんだか気が滅入る。
デスクに向かってもエンジンがかかるのに時間がかかる。気が乗らなくても手を動かして温めるしかないけど、注意散漫な感じが自分でもわかる。
淋しいな、って思っているんだと思う。
実際、いまだに悲しくなるし。
けど、淋しさを何かで紛らわすのも違う気がしたり。紛らわし方を知らないだけかもしれないけど。
会いたいなーと、連絡したいなーと思っても、なんだか自分が淋しいからという理由でしてしまうのも、自分でちょっと引っかかる。けど、いつ会えなくなるか分からないというのがリアルになって、自分に素直に、我儘になってもいいのだろうかと思ったりもする。大抵はいつも思うだけで終わる。
自分も相手も信じられていないのだろうか。昔は無自覚でしていたけど、最近ではこの自分の逃げを自覚するようになった。いろいろ理由付けているだけなんだと。
自分も相手も大切にしたいな、と思っているのも本当なんだけど。
自分に素直にって、むつかしい。
あとがき
昔から一人、散歩をしながら頭の整理をよくしていた。
その延長なのか車の運転をするようになってからも、自然とそういう感じになる。
その副作用として、ふと車の運転中に色々思い出したり考えたりして悲しくなる時がある。危ないけど避ける方法がわからなくて困る。
車の運転が好きなのも、車の空間が好きなのも、車で移動するのが好きなのも、小さい頃からよく乗っていてその思い出があるからかもしれないなと思った。