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今日のブルース④ ブラインド・レモン・ジェファーソン「マッチ箱のブルース」(1927年)

おばさん、海沿いに歩いて行ったら、川までどのくらい?
おばさん、海沿いに歩いて行ったら、川までどのくらい?
おたまじゃくしやら雑魚やらが オレのまわりに集まってきたよ

ここにつっ立って考えてる マッチ箱に服が入るかな
ここにすわって考えてる マッチ箱に服が入るかな
マッチは大して持っていないのに、道のりは遠い

神さま、あんたんとこの責任者は誰だい
神さま、あんたんとこの責任者は誰だい
何度も尋ねるわけは オレに似合いの友だちをこさえてくれんかと思ってさ

町の向こうにいつも編み物している娘がおるよ
町の向こうにいつも編み物している娘がおるよ
いいかげん編み込みやめんと狂ってしまうよ

結婚すんのはかまわねえけど どこかに落ち着くってのがなア
結婚すんのはかまわねえけど どこかに落ち着くってのがなア
説教師の真似さえすれば 町から町へと乗せて行ってもらえる

この町ともお別れさ ここも長居させちゃくれなかったな
この町ともお別れ 泣いたって長居はさせてもらえない
ベイビー、泣けば泣くほど、お前はオレを疎んじる

スーツケースをマッチの箱に喩えるのは、人種を超えて共有されるアメリカの常套句(floatin' lines)のひとつで、ブルースの世界では、ブラインド・レモン・ジェファソン以前にも、1924年にマ・レイニーが歌詞にこのフレーズを含む「ロスト・ワンダリング・ブルース」をレコーディングしている。また、同じフレーズはカントリー系の白人ミュージシャンの間にも浸透しており、「マッチボックス」はロカビリー・スタイルで一世を風靡したカール・パーキンスの十八番おはこでもあった。そのカール・パーキンスのヴァージョン(1957年)をビートルズがカバーしたもの(1964年。ヴォーカルはリンゴ・スター)が、ぼくとマッチ箱ソングの出会いだったと思う。



当時中学生だったぼくは、歌詞カードを読んで首を傾げた。何でマッチ箱なんだ?カバンのメタファーとしては、小さすぎるんじゃないの?同じように考えた人は他にもいて、P-VINEから出ていたベスト盤『キング・オブ・ザ・ブルース1』のライナーノーツで、音楽評論家の鈴木啓志さんはスーツケースはだいたい大きさが決まっているもので、大きいも小さいもない。マッチ箱というのは、カバンの小ささではなく当時のスーツケースの特徴的な形を喩えたものではないかと持論を展開した。

しかし、実際の大きさが釣り合わないから、大きさ(小ささ)表すメタファーとしてふさわしくないというのは、二つの点で間違っている。第一に、メタファーがユーモラスな表現の役割を果たすことがあるのを忘れている。比喩はなるほど似ているといかにも納得できる対比を提示するとは限らない。ときには全くグロテスクなほど大げさな対比によって、笑いを誘う。例えば、いとしこいしの漫才に、こんなのがある。

いとし「鬼瓦で思い出したんやけど、きみんとこの嫁はん元気か?」
こいし「なんでや!」

いくらなんでも鬼瓦のような顔をした女性はいない。だからこそ、観衆は夢路いとしの発想の飛躍を笑うのである(笑えない、という人はいるだろうが)。カバンをマッチ箱に喩える常套句についても同様である。大げさな比喩から生まれる笑いがわかっていれば、「マッチ箱」がスーツケースの大きさを表していると考えて何の不自然さもない。

もう一つ、中学生のぼくの理解が足りなかった点は、メタファーが提示するイメージが相対的なものだということだ。スーツケースの大きさはだいたいこれくらいだからとセンチインチで測って、同じ大きさのものをメタファーに選ぶわけではない。「○○銀座」という地方のダウンタウンに行ってみると、予想以上にしょぼかったりするが、その名称のつけ方は間違ってはいない。銀座にあやかった名称は、町が銀座に匹敵する華やかさを誇るからつけられたのではない。さびれた地方都市にあっては、周囲と比べれば比較的繁栄している、あるいは地元の人びと寄せる期待や愛着が他よりも大きい、という相対的な重みから、銀座の名前を使うことが許されているのである。地元の人にとっては、相対的な意味で、それはやはり銀座なのだ。

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「マッチ箱」の場合も同じことが言える。スーツケースがマッチ箱の大きさでないのは、当たり前だ。ただ、何かと対比するとき、それはマッチ箱のように小さく見えるかもしれない。この歌に限って言えば、対比の対象はブラインド・レモン・ジェファーソン自身の堂々たる体躯ではないかと思う。残された写真を見ると、お腹がばーんとでた見事な巨漢である(身長、体重などのデータはないが、この風貌で小動物のような大きさだったら、オラあ、笑うぜ)。この巨体で、目の見えないジェファソンが小さなカバンに必死で服をつめこんでいる姿を想像してみて欲しい。なんだか、微笑ましくて、くすっと笑いが漏れないだろうか。周りの人に「レモンさんが持ってると、カバンがまるでマッチ箱みたいだねえ」などと言われたかもしれない。これもまた、表現としては何の不自然さもない。

というわけで、メタファーというのは、相対的なもので、ときにはユーモラスなデフォルメを受け入れる。そのことがわかっていれば、「マッチ箱」の比喩に不自然なところは何もない。

その他の点で気になることをいくつか。冒頭、川を目指しているのは、この曲の録音が水運の町シカゴ(「『スウィート・ホーム・シカゴ』の謎④」参照)で行われたことを考えると、テキサスへ帰る船に乗るためだと考えられる。オタマジャクシや淡水魚の稚魚が群がってくるのを感じているということは、ジェファソンは海のなかを歩いている。そして、目の見えない彼は淡水で暮らすそれらの生物が足に触れる感触から、川が近いことを感じ、たまたま通りかかったおばさんに、「ママ、川はまだかい?」と聞いたのだろう。だとするなら、彼はリスナーに盲目だからといって何もできないわけではないということを知らせるために、このエピソードを歌いこみたかったのではないだろうか。

編み物は当然、下ネタ(また出た!)。それも棒を自らの手で入れたり出したりしているのだから、一人遊びの話だな。誰かいい人紹介したって!


How far to the river, mama, walk down by the sea
How far to the river, walk down by the sea
I got those tadpoles and minnows all in over me

Standing here wonderin' will a matchbox hold my clothes
I'se sittin here wonderin' will a matchbox hold my clothes
I ain't got so many matches but I got so far to go

Lord, Lord, who may your manager be?
Hey, mama, who may your manager be?
Reason I ask so many questions, can't you make friends match for me?

I got a girl cross town she crochet all the time
I got a girl cross town crochet all the time
Mama if you don't quit crochet-in you gunna lose your mind

I wouldn'y mind marryin', but I can't stand settlin' down
I don't mind marryin', but Lord, settlin' down
I'm gonna act like a preacher so I can ride from town to town

Well, I'm leavin' town, but that won't make me stay
I leavin' town, cryin' won't make me stay
Baby, the more you cry, the farther you drive me away

追記 「マッチボックス・ブルース」には2テイクあるということを知り、どうしてもリミックスして、「ダブル・レモン」という迫力デュオを聞きたくなり、やってしまいました。著作権は切れているので法的には問題ないと思いますが、天国のジェファーソンに「オレの歌を勝手に切り刻むな」と怒られるかも。でも、仕上がりは悪くないので、noteに置いておきます。


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