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今日のブルース⑯チャーリー・パットン「どこもかしこも水びたし」

どこもかしこも水びたし

Pt1

サムナーあたりで起こった逆流が
とことんオレを追い回す
サムナーで起こった逆流がとことん、
哀れなチャーリーを追い回す
神よ、ドリューの町は洪水で壊滅したと世に伝えなくては

神よ、神さまよ 国中どこへ行っても
あふれた水で水びたし
神よ、神さまよ 国中どこへ行っても
あふれた水で水びたし
(ここにはいられない。高台に戻らなければ、なあ、ぼうず)
ヒル・カントリーに行きたいんですがね。
しめ出されちまったんで。

ご覧ください。
リーランドじゃ 水位が上がってる。
リーランドの連中が言うには、
むこうでも水位が上がってるって。
ぼうず、むこうでも水位が上がっているようだな。
わしはグリーンヴィルに行ってみるよ。それじゃあ、またな。

神よ、ご覧ください、とうとう水があふれてしまった。
堤防が決壊して、あちこちから水があふれている。
リーランドでも、グリーンヴィルでも
あちこちで水があふれている。
おにいちゃん、ここも長くはいられないわね。
そんなときはローズデイルに行ったもんだけど
いまじゃそこも水びたしだそうじゃないの。

今じゃあ、チャーリーズ・タウンまで
水びたしらしいよ、おばさん。
チャーリーズ・タウンまで
水びたしだって。
あんちゃん、わたしはヴッィクスバーグに行こうかな。
ヴィックスバーグに行こう、。
わたしの知ってる高台といえばそこだから。

オレは川を遡って
水があふれていないところまで行こう。
丘を越えていこう。
そこまでいけば、水があふれたことなんかないところだから。
ぼうず、シャーキー郡もやられて、スト―ヴォールも
何もかもが水のなかだよ。
住民はタランチー海岸の向こうに逃げ出して
タランチーで一から出直しだそうだよ。

神よ 水があちこちに押し寄せています。
ジャクソン・ロードに
くわばら あふれた水でジャクソン・ロードも水びたし。
ぼうず、おかげで服が体にべったりはりついてる。
山国に帰るよ そこまで帰れば
さすがに心配ないだろう。

Pt2

ブライズビルで氾濫 あちこちから逆流した水が
ブライズビルで氾濫 ジョイナーの街を飲みこんだ
子どもを含む50家族が 水に飲まれ溺れた

友だちの家まで水が迫ってきて
友だちの家まで水が迫ってきて
友だちは女たちに言った。「神さま、逃げた方がよさそうだ」

水は勢いを増し オレの寝床に迫りくる
水はごうごう唸り オレの寝床に迫りくる
氷山にのって旅にでも出るしかないな

聞こえる ドアに水があたる音が
な、言っただろ、そこだよ、そこ
聞こえる 神さま神さま 氷山が沈んでいく音が
ここじゃボートも手に入らねえ マリオン・シティが沈んでいく

溢れた水はあまりに高く 人びとを飲みこんでいく
そこの人、どちらを向いても、水が行く手を塞いでいるぞ
取り囲まれたぞ、ぼうず
50家族 子供までもが 水に飲まれて溺れた

女も一人前の男も沈んでいく
女も子どもも飲み込まれていく
神よ お情けを
誰の家もなくなった 人っ子一人いやしない

The back water done rose all around Sumner lord, and drove me down the line
The back water done rose at Sumner, and drove poor Charley down the line
Lord, I'll tell the world the water done struck Drew's town

Lord the whole round country, lord creek water is overflowed
Lord the whole round country, man, is overflowed
(spoken: you know, i can't stay here, I'm bound to go where it's high boy.)
I would go to the hill country, but they got me barred

Now looky now, in Leland, Lord, river is rising high
Looky here, boys around Leland tell me river is raging high
(spoken: boy, it's rising over there, yeah.)
I'm going over to Greenville, bought our tickets, good bye

Looky here, the water dug out, Lordy, levee broke, rolled most everywhere
The water at Greeville and Leland, Lord, it done rose everywhere
(spoken: boy, you can't never stay here.)
I would go down to Rosedale, but they tell me there's water there

Now, the water now, mama,done took Charley's town
Well, they tell me the water,done took Charley's town
Boy, I'm goin' to Vicksburg   
Well, I'm goin' to Vicksburg,
for that high of mine

I am goin' up that water,where lands don't never flow
Well, I'm goin' over the hill where,water, oh don't ever flow
Boy, hit Sharkey County and everything was down in Stovall
But, that whole county was leavin',over that Tallahatchie shore
Boy, went to Tallahatchie and got it over there

Lord, the water done rushed all over,down old Jackson road
Lord, the water done raised,over the Jackson road
Boy, it starched my clothes I'm goin' back to the hilly country,
won't be worried no more


Pt 2

Back water at Blytheville, backed up all around
Back water at Blytheville, done struck Joiner town
It was fifty families and children. Tough luck, they can drown

The water was rising up in my friend's door
The water was risins up in my friend's door
The man said his womenfolk, "Lord we'd better go"

Oh Lordy, women is groaning down
Oh Lordy, women and children sinking down
(spoken: Lord have mercy.)
I couldn't see nobody home, and was no one to be foun


さて、前回は1927年のミシシッピ川の大洪水をテーマとしたブルースを中心に、一人称の語りとはどういうものか、そして、それがブルースの標準的な語り口になっていく歴史的背景についても概観した。しかし、そのときにも述べたように、ミシシッピ洪水を扱ったブルースのなかで、チャーリー・パットンの「ハイ・ウォーター・エヴリホェア」(著者が勝手につけた邦題は「どこもかしこも水びたし」)だけは、一人称の語りではすまされない語りの複雑さを持っている。「どこもかしこも水びたし」はPt1、Pt2に分かれている。ブルースの録音がこんな風に二つに分かれている場合、アドリブで行き当たりばったりに生まれた歌詞が、SP盤の片面に収まりきらなくなって、二つに分けたと考えることが多い。しかし、この場合、おそらくそうではない。というのは、pt1とpt2では語りのスタイルが違っており、それぞれに別の実験をしているからだ。そして、ご丁寧にもどちらも10インチのSP盤の片面に収録可能な時間4分に余裕をもって収まる3分強の長さである。豪快なエピソードに事欠かないパットンが、実は几帳面な感覚を持っていたことが推測される。

Pt1では、複数の人物の一人称の語りを会話に近い形で積み重ねることによって、三人称の語りの持つ客観性や広がりと、一人称の語りの臨場感を両立させている。こうした一人称の限定的な視点の積み重ねから生まれる客観性は、すべてを知っている三人称の語りによって与えられる客観性とは、まるで別物である。後者が絶対君主の客観であるとすれば、前者は民主主義の客観と言うべきか。むべなるかな、危機的な状況に直面して、民主制がしばしば露呈する混乱がここにも見られる。しかし、それはパットンの実験の失敗を意味しない。なぜなら、パットンが表現したかったのは、どこに逃げたらよいかわからず右往左往する群衆であり、それは一人称単数でも、三人称でもなく、一人称複数によって、はじめて十分に表現できると考えたのだと思う。そして、その試みは成功している。

これに飽き足らず、パットンはPt2で新たな語りの実験をしている。Pt2は語りの上では、pt1とは全く別の作品である。pt2の語りは一貫して、パットン自身の一人称なのだが、語られている内容の位相が変わる。最初はどこかで起こっているであろうことに対するパットンの伝聞と想像である。それが、ある時点から逃れられない現実となって、パットン自身に降りかかってくる。この、見ていたものが見られるものになる感覚が、歌にヒッチコックのホラー映画のような緊張感を与えている。

人聞きの情報から水害を客観的に位置づけた1連目に続く2連目は、被災した友人について書かれているが、罹れているのが友人が現実に体験したことかどうかは疑わしい。友人もパットンも被災者であるとはいえ、それぞれの自宅にいるので、互いがどんな状況にあるかはわからない。ということは、これはパットンが頭の中で考えている友人の状況、彼の想像にすぎないのだ。逆に言えば、その世界に限って、パットンはすべてを知っている。ところが、3連目になると、語り手パットンの視点は想像から現実に向かい、彼はすべてを知っている神の地位を失う。一寸先は闇のなか、何が起きるかわからずに、声を顰める一人の人間に返り、眼前の現実を語りはじめる。想像のなかで友人の家を飲みこんだ水は、そのまま勢いを増して、次の連で語り手パットンの現実世界に飛び出してくる。語り手の寝床に迫らんと、ひたひたドアを叩く。そこだよ、そこ、そこまできてる!この臨場感と、客観→主観的想像→主観的体験へと詰め寄るスピードが、この傑作を凡百のブルースから隔てている。やはり、パットンはすごい。

こうしてパットン自身の生の体験が描写されたあと、1連目で言及された犠牲となった家族の数がくり返されるとき、その数字はすでに説得力を失っている。数字で客観性を担保したところで、一人の人間の現実として災害を体験したパットンは、50という数字に何の意味もないことを知ってしまっているからだ。阪神大震災でも、東日本大震災でも、逐一報道される死亡者の数が被災者を苛立たせた理由がここにある。数えられるものは、主観的な体験の外にあるのだ。





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