BMI覚書②ベトナムを超えて: 沈黙を破るべきとき マーティン・ルーサー・キングの反戦スピーチ(2022年3月15日加筆訂正)
1967年4月4日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、のちに「ベトナムを超えて 沈黙を破るべきとき」と呼ばれることになるスピーチを行い、ベトナム戦争反対を表明した。ある意味でこれは、キングが公民権運動家であることに限界を感じ、自分が本来、人権運動家であることを宣言したスピーチであった。アメリカの「公民」(市民)であることを根拠に与えられる公民権(市民権)には、議論はあるにせよ、国やコミュニティを守るために命を投げ出す覚悟と表裏一体である。一方、人権は人が生まれながらに無条件で持っている権利で、所属する集団に対する義務は伴わない。公民権と人権は違うのだ。
戦争はアフリカ系アメリカ人をはじめとするマイノリティの人びとが、国への忠誠心を示すことによって、アメリカ市民としての資格があることを示す機会だった。多くのアフリカ系アメリカ人は「祖国」が戦争を起こすたびに、自分たちにアメリカ市民としての資格があることを示そうと、必要以上に(←私見)勇敢に戦った。独立戦争における黒人「兵」(王党派と独立派で黒人の徴用に対する対応は分かれた。このあたりのことはいずれまとめたい)の貢献について、『アンクル・トムの小屋』の作者ハリエット・ビーチャー・ストウはこう述べている。
さすがストウ、見事な絵空事である。奴隷制時代も奴隷解放後も、アフリカ系アメリカ人が生きてきたのは、こんなきれいごとの世界ではない。マルコムXならこう言う。「きみたちは、白人のためには血を流すのに、同胞のためには血を流さないのか」(1963年10月11日のスピーチ「草の根大衆へのメッセージ」)。彼らは生き延びるために、自分を人間と認めない国に、市民であることを認めさせなければならなかった。兵役はそのための踏み絵だ。実際、第一次世界大戦では、「黒いガラガラ蛇」「ハーレム・ヘル・ファイターズ」の異名をとった歩兵369連隊をはじめとする黒人部隊は勇敢に戦った。黒人教育機関タスキーギ学院の2代目校長ロバート・モートンは、ウィルソン大統領に、アメリカの歴史のなかで被ってきた不利益にもかかわらず、黒人がアメリカという国家に忠実であることを保証した。
しかし、黒人兵の勇敢さも、忠誠心の保証も、人種隔離社会を変えるのに十分ではなかった。大統領の命を受け、戦地フランスへ向かったモートンは、黒人兵には帰国後、戦地でつくった記録を汚さぬよう、手に職をつけて自立することを、白人兵には「民主主義が白黒問わずすべての人間にとって安全なものであるように」することを求めたが(Robert Mussa Morton, Finding A Way Out: An Autobiography. 1920. 234-265)、帰還した兵を待っていたのは、黒人をリンチし、彼らから市民権を奪い、教育を与えず、経済的にも搾取する人種隔離社会だった。W・E・B・デュボイスは全米黒人地位向上委員会(NAACP)の機関誌『危機』に掲載されたエッセイ「帰還兵」(“Returning Soldiers,” The Crisis, XVIII (May, 1919), 13.)で、こうしたアメリカ社会の歪んだ現状を列挙したうえで、「われわれは戻ってくる。戦いから戻ってくる。戦いに戻ってくる。民主主義に道をあけろ!われわれはフランスでそれを救った。神にかけてアメリカでもそれを救う。救えないとしたら、その理由は明らかだ」と書いた。黒人兵たちが命がけで獲得した名誉は、名目的で一時的なものであり、民主主義に対する裏切りは、キングが生きていた時代はもちろん、現在でも続いている。
それでもなお、アフリカ系アメリカ人にとって、兵役は自分たちが「アメリカ市民」であることを示す広義の「公民権運動」の一翼を担っていた。しかし、公民権運動は、独立宣言や合衆国憲法に高々と掲げられながら、その実現を保留されてきたアリカの理想を実現する=「不渡りの現金手形を換金する」(1963年8月28日ワシントン大行進でのキングのスピーチ「わたしには夢がある」)ことを求める運動である。それはそれで必要であったことは確かだが、戦争を含むアメリカの国策が「アメリカ市民」ではない人たちの人権を傷つけているとき、アメリカ市民たらんとするアフリカ系アメリカ人はどうすべきなのか。もちろん、権利と権利は互いに矛盾しあうもので、常に調整が必要とされる。しかし、「公民権」という概念は必然的に、「公民」の内と外を隔てる線を引く。アフリカ系アメリカ人が、その外に置かれるにせよ、内に置かれるにせよ、そこにあるのはドナルド・トランプがつくろうとした壁に他ならない。アメリカの外にあって、手形を渡されていない人たちは、いくらアメリカの理想を実現したところで、そこから取り残されてしまう。それどころか、アメリカの国策によって、人間として当然の権利を奪われて何の補償も受けない。「アメリカの理想」を実現しようと働いてきた人びとですら、そうした問題から目をそむけてしまう。
そこから目をそらすことができないのが、キングなんだな。
アフリカ系アメリカ人が形のうえでアメリカ市民になったところで、意味はない。アメリカの国内にも、国外にも、基本的な人権―1973年のチリ・クーデターで殺されたミュージシャン、ビクトル・ハラの言葉を借りるなら「平和に生きる権利」― を奪われている人がひとりでもいる限り、誰も自由ではない。ちなみに、ビクトル・ハラは、アジェンダ社会主義政権下のチリで活躍したシンガーソングライター。1973年9月11日、アメリカの支援を受けたアウグスト・ピノチェトによるクーデターのなかで、両腕を撃ち抜かれて殺された。アメリカの外で、アメリカの犠牲になったチリ市民の一人である。
キングが暗殺されたのは、1968年4月4日、「ベトナムを超えて」のスピーチの、ちょうど一年後である。これが単なる偶然だとすませられるほど、今のぼくは無邪気ではない。
追記
「平和に生きる権利」のビデオを探していたら、この曲の「2019年バージョン」があるのを見つけた。震えるほど素晴らしい演奏。日本語訳(2019年版の)もついているので、ぜひ聞いてみてください。
追記② マルコムXは暗殺される直前、メッカ巡礼で正統派イスラム教の兄弟愛に肌の色は関係ないということに気づき、ネイション・オヴ・イスラムの偏狭な人種主義を脱して、キングの思想に近づいたと言われる。自己防衛のためには武装も辞せずという考えを捨てなかったという点を除けば、それは正しい。ただ、それを言うのならば。キングのほうも、マルコムの死後、彼の思想に近づいていった面があるという点を指摘しなければ、フェアではない。
キングは二つの点でマルコムに近づいた。ひとつは貧困との闘い。「ベトナムを超えて」のなかでも言っているように、キングはこの時期、本格的な貧困対策にのりだし、行政にも働きかけており、そこに使わるべき予算が、正当性の乏しい戦争に浪費されることに、苦言を呈している。もちろん、キングは以前から貧困対策の重要性に気づいていたはずだが、彼が活動の基盤とする南部では人種隔離、とりわけ選挙権被選挙権の確保という優先されるべき問題があった。そのころ、北部のゲットーを中心に貧困対策を目論んでいたのが、ネイション・オブ・イスラムやマルコムXであった。
キングがマルコムに近づいたもう一つの点は、国際的な視点である。マルコムXはネイション・オブ・イスラムのスポークスマンだった時代から、バンドン会議の重要性を強調するなど、植民地主義・帝国主義の犠牲者という意味での「黒人」の国際的な連帯を視野に入れて、国際連合に独立した「黒人の国」(アジア・アフリカの新興国家)が議席を確保しつつある今、黒人は少数派ではないと考え、アメリカの人種問題を国連に提訴しようと考えていた。一方、キングはアメリカ国内では黒人が少数派であるという現実を見据え、非暴力不服従の直接行動によって、良識的な白人との協力関係を築いてきた。しかし、ベトナム戦争の泥沼化とともに、キングも国際的な反帝国主義の動きにリンクしようとしていたことは、国内の協力者からの厳しい反発が予想されるにもかかわらず、反戦に踏み切ったことからも明らかだ。このスピーチのキングの言葉には、生前のマルコムを思わせるところがある。
もちろん、メッカ巡礼前のマルコムは世界を白黒で分けている。伝えようとしているものも違う。しかし、巡礼後、肌の色の壁を取り払ったマルコムと、国際的な連帯の必要性に気づいたキングは、同じ言葉で語ることができるようになっていたことは間違いない。
忌むべきテロリズムによって、残念ながらそれは実現しなかったのだが。