記憶にございません
真夏の風が久しぶりに開けた窓から入ってきて、部屋に湿度と温度を取り戻させていた。近所の公園で遊ぶ子どもの喚声が風に乗って届き、コロナも落ち着き始めたことを思い出す。
「すっかり夏だなあ」
高村は揺れるカーテンを見ながらつぶやく。
「暑いな。窓、閉めるか?」
「いや、いい。お前を思い出すと、いつも暑さも思い出す」
「そうか」
私は冷酒を舐めるように飲む。高村も同じようにした。
「俺たちも、歳をとった。頭の方は大丈夫か、ちゃんと動いてるか?」
「どうだろうな、怪しいかもしれん。先だって、爪切りの場所が見つからなくて小一時間探したよ」
高村は笑った。
「それはお前がせっちゃんに頼りすぎていたせいだろう」
そうかもな、と私も笑いながら、節子のことを思い出していた。コロナになって、肺炎を併発した節子は感染から三月足らずで死んだ。もう三年も前のことだ。
せーんーそっ、せーんーそっ。ぐんかんぐんかんちょーせん、ちょーせんちょーせんはわい、はわいはわいちょーせん、いっぽんとってぐーんかん。子どもの声が聞こえた。高村もそれに耳を傾けているようで、目を細くして、わずかにほほ笑んでいた。
「子供は元気だな。あの子たちは意味を知ってやってるんだろうか」
「知らないだろう。俺たちだってすべてを知らない」
高村の様子をそっと探る。いつだって私たちの会話はそこに落ち着くしかないのだ。あれからずっと、忘れたくても忘れられない記憶。
「知らなくて、いいのかもな。また同じことが起きないようになっていれば。もう二度とごめんだ」
[ああ]
私にはそれしか言うことがなかった。
「そうだ、この前思い出したんだが、お前、あのことを覚えているか?」
「なんだ、記憶にございませんのことなら答えたくない」
高村が渋い顔をして、首を振った。
「俺だってそのことを話すつもりはない」
戦争から帰って、フィリピンでのことを聞かれた兵士は、自分たちの行動のいくつかにそう答えた。言ってはならない不都合な真実、あるいは自分たちが人間であるために忘れなければならない記憶。軍関係者はそれ以上それについて問うことがなかったし、実際、ほとんどのことは夢のようにあいまいだった。生きるために生きているような日々だった。
「猿がしゃべったときのことだよ」
「猿?」
「ああ、猿だ。覚えてないか? 猿が日本語で、腹は減ってるか? って聞いて来ただろう」
「そんなことあったか。わからん。俺たちはそれでどうしたんだ?」
「猿が食べ物をくれたじゃないか。飢えて飢えてしかたなかったときだったから、俺たちは喜んで猿についていったろう」
記憶になかった。猿がしゃべる? しかも道案内をして食べ物をもらうなんて、御伽噺でだって聞いたことがなかった。高村の記憶違いではないだろうか。食べ物も水もなくて、あるのは死と暑さだけだった。高温多湿の密林で行軍しているとふっと意識が飛ぶ瞬間があり、密林から天幕の中に、山越えから野戦病院に、手に持っていたサンパチは九十九式歩兵銃に変わっていた。私たちの記憶はきれぎれになっていた。
「それは事実か? 夢でないとおかしいだろう。少なくとも、俺は覚えていない」
「おかしいなあ、お前も一緒にいたのは確かなんだ。お前がむさぼるように食ってたのを俺は覚えてるんだ」
高村は首を傾げ、それから酒をあおった。
「あのときはおかしくなっていた。お前だってそうだろう。意識なんて平気で飛んだ。それを気にしていたら生きていられなかった」
私は言い、それから、もうこの話はやめようと提案した。つらいことしかなかったそれらについて考えても、意味はなかった。私たちは生き残り、今を生きているのだ。
「だが……」
「もういいだろう」
私は高村が続ける前に言う。
「いや、話させてくれ。お前と俺は猿についていった。そうして、猿は焚火のある場所に俺たちを連れて行った。猿が火を使っていたんだ。あいつらは人類をやり直そうとしていたのかもしらんな。俺たちみたいな争いばかりをしない、友好的な人類を。そこで俺たちは肉を食った。なにかの干し肉だ。しわくて、嚙み切るのに時間はかかったが、滋味に富んでいて、うまかった。脂はほとんどなかったが、不思議と甘く感じた。それまでからっぽだった胃が痙攣して最初は吐き出してしまったが、しばらくしたら食えるようになった。猿はいくつもいくつも俺たちにそれをくれた。俺たちはそれを全部食って、そうして腹がくちくなって眠った。猿たちは起きたらいなくなっていた。そうだ、俺たちはそこから先、弾のなくなっていたサンパチを捨てて九十九式に持ち替えたんじゃないか。なあ、覚えていないか」
私は覚えていた。いや、思い出した、というのが正解だった。そして、そのことは高村には言えなかった。それは、猿ではなかった。猿は火を扱わない。私たちはその『猿』から九十九式を奪ったのだ。肉は、肉は。私はそれを高村に伝える勇気を持ち合わせていなかった。
「高村」
「なんだ」
それは、記憶にございません、だ。