まっする1レビュー(鈴木健.txt) マッスルの呪縛から抜けてもちゃんとマッスル 変わらぬ器と『まっするのハッピーバースデー』
いつの頃からか「今のDDTはマッスル的な要素が失われている」と言われるようになった。竹下幸之介をはじめとするアスリート色の選手が育ち、団体の中心を担うようになったこともあり、そう映るのだろう。
彼らに魅力を感じ新規ファンが入ってくる一方で、昔ながらのスタイルや持ち味を求める人たちもいる。これはいつの時代の、どんな団体にも見られる現象だ。
「マッスル坂井や男色ディーノのような鬼才は、もうDDTに現れないのだろうか」
ここ数年、そんな声がまとわりついていた。もともと坂井もディーノも、先人がいてそれに導かれてこの団体に入ってきたわけではない。いくつもの必然と偶然、そして流れや縁(えにし)などを重ねた結果、他に比類なきオリジナリティーを確立できたのだ。
それでも文化系プロレス丸出しだった頃のDDTやマッスルを味わった者たちは、いつまでも追い求めてしまう。スーパー・ササダンゴ・マシンが本体興行で“小出し”にし続けてきても、それは別モノとなるのか。
2010年10月6日、坂井の引退にともない一度は最終回を迎えたマッスル。20年後の再開に誰もが期待を抱いたが、現実的にはその日までまったく何もしないままだったら成り立たなかったはず。
坂井の復帰は、20年後に向けての必然だった。同時に、再開されたのであれば次世代の発掘も避けられなくなる。
20年間、あの頃のマッスルメンバーでやるのは不可能。マッスルマニア両国におけるペドロ高石さんの引退と、セカンドキャリアをテーマにしたことは2030年を前に訪れる実情を象徴していたように思う。
発表時は唐突感こそあったものの、次世代のマッスルを描くために坂井が動き出したのはこれまた必然だった。これまでの通例でいくと会見で言った通りになるかどうかは眉唾だったが、フタを開けてみると掲げたコンセプトそのまんまだったので、逆に意表を突かれた。
どのプロレス団体も、世代交代は難しい。それが理想とわかっていても、ファンは選手に思い入れを持っている。
いつまでもメインストリームで活躍してほしいという気持ちを無下にはできないし、さかのぼればこの業界も年功序列が蔓延っていた。ましてやマッスルは、坂井自身が仲間たちへの思いで築き上げてきた部分もある。
“一座”だからこそ、ドラスティックに徹するのが難しい。なんの前触れもなくあの頃のマッスルを描いてきた選手たちが出なくなったら、ファンは違和感以上に受け入れ難い思いを飲み込めずに反すうしたに違いない。
だからこそ、昨年の両国は2030年へ進んでいく中でアレをやる必要があった。ペドロさんが引退し、純烈という世間レベルの成功を納めた酒井一圭が「実家」に帰ってきて、初期から支え続けたアントーニオ本多とDJニラがメインを張る。
ずーっと関わってきた者たちが報われることで、ようやくマッスルは一つの時代にピリオドを打てた。それが「今までやってきた中で最高傑作」と坂井本人が言えるまでのものとなったのだから、もう“その上”はないのだ。
北沢タウンホールからスタートしたマッスルが両国国技館へ到達した時、坂井は「次はまたシモキタでやりたい」と言った。その時点で、イチから畑を耕すシチュエーションを思い描いていたのかもしれない。
会場こそ新木場1stRINGとなったが、次世代のマッスルを描くための育成プロジェクト「まっする」は、同等の規模で始まる。両国の成功を思えば後楽園ホールでも埋まるだろうとそこから始めたら、意味はなかった。
まっするに登場したのは、いずれも現在のDDTで活躍する選手たち…つまりは、アスリート枠として見られている。そのイメージが強いあまり、マッスルとは真逆の存在として受け取られる。
だが、アスリート=マッスルには不向きとは必ずしもならないはず。現に樋口和貞などあれほどの肉体的スペックを誇りながら、芸達者だし三の線をやらせても面白いのは野郎Zで証明されている。
舞台さえ用意すれば、潜在的な能力を発揮できる。もともとマッスルは、何者にもなれていない無名の人間たちに与えられた場だったはずだ。
それと比べると竹下たちは、名が知られているからこそ固定観念でとらわれてしまう分、ハンディがあった。ところが結果はどうだったか。「本当にデカくて強いやつが、誰よりもバカバカしくて面白いことをやれたら」と坂井が語っていたように、竹下のラリアットはあの空間の中で放たれたからこそ、凄すぎて笑うしかないとなったのだ。
チビっ子の頃からDDTが大好きだった男である。マッスルのテイストがすり込まれて当然だし、じっさいやっていて本当に楽しそうだった。
「僕が見ていた頃のDDTというピラミッドはそこにあって、僕はそれを登るのではなく隣にもう一つのピラミッドを創りあげたいんです」
DDTの過去と現在について、竹下はそんな言い回しをしたことがあった。でも、この男なら2つのピラミッドの間をピョンピョンと跳び移って、両方登れる身体能力と感性を備えているはずだ。
一方では“こっち側”の才能を発掘されたのが上野勇希。今のDDTを象徴するようなアスリートだから…と決めつけていたら、開花しないままだった。
そうした素材を、年期の入ったマッスルという器に入れることで極上の料理に仕上げる。頭のひねり方は培ってきたものを踏襲しつつも、同じ作り方はしない。
マッスルを代表する手法のスローモーションをやらず、その場で坂井がモノローグを聞かせる調理法に変えた。これは大きな意義があった。
初期は公演ごとにまったく別のことをやっていた。その中からスローモーション&エトピリカが“お約束”となり、いつしかそれを見せなければマッスルじゃないような位置づけをされるまでになった。
まっするをスタートさせるという恰好のタイミングによって、ようやくスローモーションの呪縛から逃れることができた。それはつまり、別の表現方法を生み出す可能性を意味する。一方では、ヘル・イン・ア・ブルーシートや「消化試合」のような独自性やアイロニーによるアイデアもちゃんと盛り込まれている。
さらにはマッスルで描いてきた「うまくいかない人間を輝かせる」というドラマ性も忘れてはいなかった。渡瀬瑞基にスポットを当てたのは、かつての726に対する坂井なりの意図がオーバーラップする。自分が書いた物語を超える何かを生み出せるのは、そこしかないという嗅覚が働くのだろう。
毎回、マッスルを見るたびに「こんな才能を持っている人が世の中にはいたのか」という人材をジャンル外から呼び込んでいた。鶴見亜門しかり、五味さんしかり、酒井一圭しかり。
その中でも、鶴見亜門ほどの狂言回しはほかにいないと思われていたが…ユウキロックさんのよどみなきグルーヴ感あふれる立ち回りを見せつけられ、心から唸らされた。同時に、そこへ目をつけた坂井もさすがだと思った。
登場当初は総合演出家として強権を振りかざし、ビンス・マクマホンのばりの非情さでマッスル戦士たちを混乱に陥れていた亜門が、渡瀬のために涙声でユウキザ・ロックに「もう一度彼らのために試合を組んでください!」と頭を下げる。あそこで、空気が変わった。緊張と緩和ならぬ、緩和からの緊張…いつもマッスルはそうだった。
アイデアが浮かばず、現実逃避する坂井が出番なく終えようとした時「おまえ、このまま何もやらないで済ませるつもりなの?」と仕掛けたのも亜門…いや、今林久弥さんだった。その2人がリングという中心点から外れ、並んで座り次世代のまっするに任せていた。ディーノも、一切絡むことなく会場のすみからすべてを見届けた。
器さえ用意すれば、おいしい料理はできる。今のDDTには、そんな素材が何人もいる。ちゃんと、いるのだ。
あと何度か重ねていくうちに、本当に坂井と亜門が一度も登場しない回が訪れ、しかもそれがごく自然な風景として映るようになるのかもしれない。それでも器…姿勢が変わらなければマッスルでしか描けぬハッピーは味わえる。それを「まっする1」は証明した。
「本当はメンバーにはならず、プロデューサーとして参加したかったんです。口だけでやっていけたらと思っていたのが、僕が入らなければまとまらないというんでメンバーになったという。だから、グループとしてはリーダーだけど、感覚的にはプロデューサーとしての意識の方が強いんです」
2年連続紅白出場グループ・純烈を率いる酒井一圭の言葉である。それが、新木場のステージ席最前列からリング上を見つめる坂井の姿と混ざった。
世間的には純烈の方が遥かに広いパイを誇るが、3日前のトークイベント控室で「まっする、どんなふうになるんですかね?」といても立ってもいられないようにしていた一圭さんが見たら、坂井の立ち位置(じっさいは座り位置)はたまらぬものに映ったはず。そして、マッスルOBとしてこう言うのだろう。
「自分が輝ける…うん、陽の当たる場所がある次世代のマッスル戦士が、本当にうらやましいよ!」
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