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はしのはなし 丸森橋 ─モダーン橋の擬人化─

 橋の擬人化をしていることは以前記事でお話しましたが、先日フォロワーの鳥麦康人さんからの依頼で宮城県丸森町の阿武隈川に架かる「丸森橋」を擬人化させていただきました。
 擬人化にあたって色々調べましたが、調べれば調べる程面白いのが橋。そんなわけで丸森橋についてデザイン解説も兼ねて記事にまとめてみました。

かわいい

丸森橋の生い立ち

丸森について

 丸森橋の歴史は意外と浅く、初代の橋が架けられたのは明治時代…ですがそれ以前の丸森町の姿も交えながら架橋の経緯を見てみましょう。宮城県の最南端に位置する丸森町は阿武隈川中流の山地と下流の平野の境目にあたり、丸森橋は丁度谷あいを抜け出た阿武隈川が平野部へ差し掛かる入り口に架かっています。

地理院地図に丸森町外のマスクと注釈を加えたもの

 北上川に次ぐ東北屈指の大河川である阿武隈川によって育まれた丸森の土地の肥沃さは現在も広々とした田園風景から窺い知ることができますが、古くから人々のくらしを支えてきた存在であり、町内には数多くの古墳をはじめ様々な史跡が残されています。また阿武隈川の長大な流域は内陸と海を繋ぐ重要な輸送路でもあり、平安末期の遺跡からは宋や瀬戸の焼き物が出土されたほか、江戸時代には福島盆地と江戸を繋ぐ舟運が行き交うなど、丸森は農業と交易両面で阿武隈川の恩恵を受け発展した地域といえます。

 一方で大きな川は災害のリスクももたらします。丸森では戦国時代の末期から江戸時代にかけて阿武隈川の右岸沿い(現在の丸森大橋上流側付近)に町が発展していきましたが、洪水の度に大きな被害が出ることから江戸時代の後期には現在の県道45号線にあたる山沿いに町を移す『町場替』が行われました。(※1)

船橋の架橋へ

 時代は下って明治時代に入ると他の地域と同様に丸森でも盛んな養蚕を基盤とした製糸工場の設立など、産業の近代化が現地の豪商『齋理』こと齋藤理助らの協力を受けながら進みます。それに伴い人の往来が以前に増して盛んになった丸森一帯ですが、阿武隈川に架かる橋は未だ無く数か所の渡し舟があるのみでした。こういった変化から丸森にも架橋の機運が高まります。明治24年(1891年)には二瓶廉吉を発起人として、先述の齋藤理助ら18人の有志によって阿武隈川への架橋を目指す隈共社わいきょうしゃが設立されます。町内の神明社には隈共社の記念碑も建立されており、いかに架橋が切望されていたかが窺い知れます。記念碑には初代架橋の理由も記されているのですが一つユニークな点があります。以下に抜粋してみましょう。

風雨の際は勿論 常に公衆の不便、困難甚しく、之に加えて方今の往来極めて頻繁。殊に学生の如き渡船を為し定刻を誤り 教育上多大なる影響を蒙る。或は急速に応じ難。 非常救済等不幸枚挙に不遑いとまず

隈共社記念碑(読み下し) 『丸森橋のあゆみ』(丸森町文化財友の会) より  

 橋を架ける目的はひとえに「人や物を対岸に渡す」為なのですが、なぜ橋を架けてまで渡したいのかは橋によってまちまちです。畑作のため、物流のため、都市を繋ぐため…もちろん近代に急速な発展を遂げた丸森においてもこれらの理由が無いわけでもありませんが「殊に」と強調してまで「教育への影響」を架橋の理由として挙げる橋はあまり見られません。時代背景もあるでしょうが、地域の人々の教育への熱意が窺い知れます。また、あくまで地域の人々が地域のニーズによって架橋会社を設立する、というのも近代丸森の力強さを端的に象徴している出来事かもしれません。

 明治25年(1892年)隈共社によって架けられた初代の橋は船橋(記念碑より)と呼ばれるもので、十数隻の船をロープで繋ぎその上に橋脚を建て橋を渡したものです。なお、この船橋のロープを繋ぎとめていたとされる金具が丸森橋たもとの弁財天の横にある岩に残っています。

丸森橋と弁財天
初代船橋のロープを繋いでいたとされる金具

木造橋 『逢隈橋』への架け替え

この船橋は非常に脆く、明治29年(1896年)には早くも全壊するなど幾度となく洪水によって破壊され、その都度復旧を繰り返してきましたが明治40年(1907年)の流失の際に船橋では実用に堪えないと判断。明治42年(1909年)に全木造の逢隈おうくま橋へと架け替えられました。逢隈橋もまた洪水により数度の落橋を経験し、その都度復旧が行われてきました。隈共社では様々な努力によって維持管理の費用を捻出(※2)してきましたが 、大正11年(1922年)には宮城県へ寄付されることとなりました。

『丸森橋』の誕生

逢隈橋が県所有となって以降、地元議員の県議への働きかけもあり鋼橋への架け替え計画が具体化していきます。そして昭和4年(1929年)4月、現在の丸森橋が竣工となりました。同年5月20には盛大な『渡橋式』が開かれ、仙台や相馬など各地の芸妓も呼び、2万人もの人出で町は身動きの取れない賑わいようだったそうです。
 なお県所有から丸森橋の開通までの期間を大きな破損もなく耐え抜いた逢隈橋は丸森橋の開通後もしばらくは隣に残っていたようで、昭和4年の写真には丸森橋の足元に一部桁が流された逢隈橋の姿を見ることができます。

 その後平成24年には下流側に全長556mの『丸森大橋』が架けられますが、丸森橋は現在も地域の交通を支える橋として供用され続けています。
勇壮なブレースドリブタイドアーチの丸森大橋もまたいい橋なのでゆっくり見てみたいですね…

丸森橋と丸森大橋

丸森橋について デザインメモ

立ち絵。かわいい。

 そんな丸森橋について、擬人化をする際に注目したポイント等を挙げてみましょう。全体のテイストについては教育に重きを置いた初代に倣って学生さん風にしています。架橋当時から今まで「モダーン橋」として地元の人々愛されているみたいなので近代っぽさ重視でセーラー服ベースにアレンジをしています。あと私がセーラー服が好きなので描きなれている。
遅刻防止の為に生まれた橋の血筋なので時間にはうるさいです。

全体について

全体の形式は『下路式曲弦プラットトラス×2+中路式桁橋』という形式になっています。それぞれの形式はこの時代としてはあまり珍しいものではない(戦前の中路式鈑桁はあまり見ませんが)のですが、後述するある理由でそうなったであろうトラス+桁橋の組み合わせはユニークなので、ロングヘアー+ワンサイドアップでアシンメトリなシルエットを再現してます。
 ちなみに丸森橋に限った話じゃないですが、川を上流から見て左を左岸、右を右岸というので擬人化でもそれを基準に左右のデザインをしています。なので左のワンサイドアップが桁橋ですね。

特徴的なプラットトラス+桁の組み合わせ

トラス部分について

 丸森橋以外のプラットトラスでも時々見かけられますが、トラスの斜材が橋脚側から橋の中心に行くに従って細くなっており、鋼材の使用量を抑えている点もこの時代ならではの処理で表情の変化にも寄与しているので、襟の線を下から上に行くにしたがって細くしています。

斜材の太さが変化するトラス部分
下から上に向かって襟のラインを細くしています

橋門構について

 個人的ははかなり個性的だと思うのが『橋門構』と呼ばれる部分の処理です。大きなトラス橋等は傾かないように左右のトラスを繋ぐように頭上に『橋門構』や『対傾構』と呼ばれる部材を設けます。(専門ではないので解釈や表現が間違っていたらスミマセン) 通常の橋は入り口部分に『橋門構』、それ以外の部分に『対傾構』を設ける造りになっています。

多くの橋に見られる処理。
入り口部分は『橋門構』のみで
その奥に『対傾構』が並ぶ

 一方丸森橋は橋の入り口部分に『橋門構』と『対傾構』がセットで設けられています。自分が気付かなかっただけで他の橋にもあるかなと訪問した橋を確認してみましたが丸森橋だけなのでやっぱり珍しい処理じゃないかと思います。意匠と強度の両立なんでしょうかね?
 擬人化ではスカート裾の横一文字の格子模様で『橋門構』、スリットの中やスカートの裏地で『対傾構』を表現してます。

丸森橋の処理
『橋門構』と『対傾構』が入り口にある

桁橋部分について

 個人的にはあまり見ない戦前の中路式桁橋なので興奮なのですが、シンプルな桁橋なので無暗に主張するのも違うな…との葛藤で左胸にポケットを付けてそのフラップを桁橋にしています。大きな角Rが取られているのは昭和30年代にかけて幾つか架けられる同様の中路、下路式桁橋と共通する特徴なのでフラップの角を丸くしています。

角Rの取られた桁橋
縁の丸い左胸ポケットのフラップ

橋脚について

 丸森橋の案内でよく見られるのがここかもしれません。宮城県で現存する唯一の石張りのあるRC造橋脚みたいです。なのでソックスの柄でしっかり再現させてもらいました。こっそりワンポイントでねこの肉球マークがついてますが、これは養蚕の盛んな丸森には『猫神様』の碑が多く残るなど古来から猫を大事にしてきた土地柄なので丸森橋も猫好きというわけです。

角を石張りとしたRC橋脚
隅石柄のソックスとねこの肉球ワンポイント

橋脚の基礎について

ここがね!!!!!!!!丸森橋の凄くおもしろいポイントだと思うんですよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
……失礼しました。丸森橋の橋脚基礎は左岸と右岸で異なった形式になっています。まず右岸側は井筒と呼ばれる円筒形のコンクリート柱を二本立て、その上に橋脚を設けるもので比較的一般的な方法といえます。

右岸側の井筒基礎橋脚
二本の円柱を跨ぐように橋脚が作られている

 左岸側を見てみると巨大な岩の上に橋脚が設けられています。川の流れを阻害する橋脚を極力減らしたかったことと、安定した巨岩を基礎とすることで費用と工期を低減する狙いがあったのかな?と思います。この巨岩を橋脚基礎にしたことで左岸側一径間のスパンが短くなり、残りの右岸側二径間のスパンが広くなった結果、丸森橋の特徴でもある桁とトラスの組み合わせが生まれたのではないかと私は考えています。

左岸側の巨岩を利用した基礎と橋脚

 ただ擬人化ではあまり左右非対称にしてしまうとバランス取りが大変なのでローファーのサドル(足の甲の帯状の部分)まわりのデザインを左右非対称にしています。この辺りもっと攻められるセンスあるといいんだけどね。

ローファーのサドル
右足は井筒基礎の円筒とそれを跨ぐ橋脚下部のアーチを
左足は姥石の上に乗る六角形平面の基礎と姥石に入った筋をモチーフにしている

 ところでこの巨岩、実は『姥石』という名前があり言い伝えもあります。「ある日姥石の近くで川に鎌を落とした若者が川に飛び込んだまま帰ってこず、数十年後にひょっこり帰ってきた。彼に話を聞いてみると姥石の下にあいた穴の先にあった館で数日の歓待を受けて帰ってきたというのだ」といういわゆる竜宮伝説です(※3)。そんな岩を基礎にしちゃってよかったのかな…? 地元の方のお話では、先述の金具が刺さった岩を姥石と勘違いする人も多いから気を付けてね!との事でした。 (GoogleMapsでも確かにそっちにピン留めされてるんですよね…) 各種資料では橋脚基礎になっている岩が確かに姥石と呼ばれているので地元の方が言っている事が正しいんじゃないかな、と思います。皆さんも気を付けてね!

 なお擬人化にあたっては髪留めを初代船橋のロープ留めの金具モチーフにしながら、紐で竜宮伝説から青龍と黄色い宝珠、袂の弁財天にあやかり白蛇と赤い目を表現してます。伝わるかな?

金具をモチーフにしたかんざし風の髪留めに
龍と蛇のイメージカラーの紐を結び付けています

おわりに

丸森橋を描いて

 丸森橋について色々と解説をしましたが、実をいうと私自身丸森橋は依頼を受けて初めて知った橋でした。(はたしてキャラクターに落とし込めるだろうか…?)と不安に思いながら鳥麦さんから資料を受け取ったり現地調査をしましたが、知れば知る程面白い橋で結果的にはとんだ杞憂に終わりました。橋は橋そのものの歴史と橋がつなぐまちの歴史、橋が跨ぐ川の歴史の集積点である事を改めて教えてくれた案件だったんじゃないかな、と思います。また、今回依頼を頂けたお蔭で丸森町の生い立ちを知ることができ、現地の街並み、人々とも触れ合うきっかけが得られたことも大変大きな収穫でした。改めまして鳥麦さんや丸森の皆様に感謝申し上げます。

 個人的に丸森は東日本大震災や2019年台風19号等の災害で名前を聞く機会が多く、心のどこで「被災地」というイメージを抱いていたように思います。当然災禍の傷痕は私たち余所者には見えない部分で残っているのだと思いますが、現地を歩いてみると見えてくる人々の生活のありようは穏やかで力強く、歴史の彩りも豊かな町でした。齋理屋敷をはじめ、地域のヘリテージを活かしながらあたらしい価値を作っていこうとしている場所も多く、開通時の河北新報にある「丸森気質」というのはこういうところなのかな、とふと思いました。

 今回の訪問は台風の接近する荒天(それはそれで好きなのですが)だったので、いつか天気のいい時期に再訪したいですね。猫神めぐり、石倉めぐり、丸森にはまだまだ見ぬ宝がたくさんある…

齋理屋敷
現在は郷土館のほか様々なイベント会場として利用されている

おまけ

丸森橋関連のスポットをまとめた地図です。
他にも素敵なスポットたくさんなのでぜひ丸森にきてね!!

宣伝!!

今回のデザインは鳥麦さんの3Dモデル様に書き下ろしたものになります。
10/26からはVRChat等で利用できるアバターの販売も始まったので是非ご覧ください!

参考文献と注釈

参考文献

・『丸森橋のあゆみ』 丸森町文化財友の会
・『阿武隈川の今昔ものがたり
  丸森町文化財保護委員会 丸森町文化財友の会
・『川とともに生きる ─阿武隈川の舟運と丸森の人々─
  丸森町文化財保護委員会 丸森町文化財友の会
・『新しい街並みをつくる ─200年前の町場替え─
  丸森町文化財保護委員会 丸森町文化財友の会
『19世紀初頭丸森町の「町場替」と歴史的空間の変遷var.1.5』
  川内 淳史
・『日和下駄 : 諸国拝見』 吉野臥城

注釈

※1:この町場の変化と2019年台風19号がもたらした丸森町の浸水被害の状況には類似性がみられるという研究もあります。 (『19世紀初頭丸森町の「町場替」と歴史的空間の変遷var.1.5』)

※2:船橋と逢隈橋の存続には隈共社の佐藤清右衛門に因るところが多く、県の偉人のひとりとしても挙げられています。(『みやぎの先人集「未来への架け橋」』)

※3:大正時代に刊行された本では「竜宮に行ってしまった夫が帰ってこない事から後を追って妻が飛び込んだところ姥岩になってしまった」という話もあります。(『日和下駄 : 諸国拝見』)


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