ガニ
テレビの向こう、タレント達が長い脚をを持ち、身を垂らし、仰け反ってから吸い込むように蟹を食べている。
んん〜〜!美味しい‼︎ とか言っているけど、めちゃくちゃわざとらしいし全く食べたいとも思わない。私が一番好きなのは毛蟹だから。気持ち悪い、怖い、とか言われもする毛蟹だが、ズワイやタラバより味が濃くて旨味がある事をこっちの人間は知らない。うちの田舎で蟹と言えば毛蟹であり、それは『ガニ』と呼ばれていた。
いっこおっぱ(おばさん)が
「おらガニ食べらんねぇがら、もらってやってけで〜」
と言いながら何度も届けてくれた毛蟹こそ、私にとっての田舎の味だ。祖母の姉である大おっぱとその娘のいっこおっぱは、魚市場で働く『がっか』(母さん)と『あねさん』(姉さん)だった。祖母も、私が生まれる日の朝までがっか達の一人だったと聞く。私が小学校に上がる直前に亡くなったけれど。
思い出したくもない過去が蘇ってしまった。私の中で田舎の話は禁忌であり禁句だ。でも思い出してしまった。もう後には引けない。今まで毛蟹を避けて暮らしていた訳ではない。東京にいるからたまたま見ずに済んでいただけ。もしくは目に入っていてもそのまま流していただけだ。
このまま思い出し続けてみようか。なぜかそう思った。私の、ガニに纏わる昔を。捨ててきた過去を。もうすでに息苦しくなり吐き気さえしてきたけれど、いつまでも蓋をしておく訳にもいかないのだろう。生物に蓋をして置いておけばいつか腐る。膨張し、蓋を弾き飛ばす。その中身は撒き散らされる。爆発する。捨てたはずの私の過去はまだ私の中にあって、ずっと膨張し続けていたのかもしれない。
蓋。開けられるだろうか。地獄の蓋だ。蓋を開けて飛び出してきたものを私は受け止められるだろうか。それともこのままにしておくか。蓋が弾け飛ぶまで。その中身は私だけじゃなく、旦那や娘にもかかってしまうのではないだろうか……。
そうだ。今、私はひとりじゃない。すぐそばには旦那がいる。娘もいる。家族がいる。本当の。本当の、家族。言葉にするのはこっぱずかしいが、愛している人達がいる。きっと私も愛されている。きっと大丈夫だ。大丈夫じゃなかったら、またひとりになるのかな?それは死んでも嫌。嫌だ。だから、今、蓋を外す。
浜風が、におった。
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私は小さい頃からよくいっこおっぱんちに行っていた。
小さな木の家、立て付けが悪く触るとベタベタする引き戸、他所の家で見た事がない土間。三和土の向こうは万年ごたつの茶の間。その奥の暗い部屋には寝たきりのおじいさんがいた。おじいさんは大おっぱの旦那なのだが、『ずさま』(じいさま)と呼ばれていた。しかし私はそう呼んだ事がない。会話をした事がないのだ。常時少し開けられた襖越しに挨拶するだけで、返事はない。そういえばずさまの姿すら見た事がない。見ていたのは布団の盛り上がりだけ。
いっこおっぱの弟であるのんこさんは、いつもこたつの左側でテレビを見ていた。私とは目を合わさず、猫背で、お茶を飲む時のみこたつから右手を出すおじさんだった。その手はいつも赤く分厚く、指は太く短かった。沢山の毛が生えていた。のんこさんはなぜかいつも恥ずかしそうにしていた。
私が家に行く度、大おっぱといっこおっぱはすぐにこたつから立ち上がり、
「あら〜、よっこちゃんよぐ来たごど! ささ、あがって〜。ジュースぁねぇけどお茶っこ飲んでって〜」
と顔を崩して迎えてくれた。小さく、狭く、暗く、寒く、しかも魚臭い家だったが、私の足はなぜかいつもそこへ向かおうとした。
私が上京したのは高校の卒業式翌日だった。両親が寝ている間に、音を立てないようあの家を出た。予想通り、テーブルにもどこにも何の準備もされていなかった。最低限の荷物は東京のバイト先であるキャバクラの寮に送ってあった。大荷物で出る訳にはいかないからだ。普段使っていた斜めがけのバッグを肩から下げた。
担任からは大学進学を何度も勧められていた。奨学金の説明も受けた。私は『おめさ金使うのぁ高校の卒業式までだがらな!』『おなごが大学行ぐなんざ言語道断だ! おらですら行げねがったんだから! おめは就職してはえぐこごがら出でいげ!』と父から事あるごとに言われていたので、進学ははなから頭になかった。父がそう騒ぐ時、母は何をしていたか? いつもよりも更に恨みがましい目で私を見るだけだった。母は高校の面談に一度も来なかった。参観日にも来た事がなかった。運動会の時は、保健室や職員室で自分で作ったお弁当を食べていた。先生方が毎回自分達のおかずを分けてくれた。進路についての話し合いの為高三の担任は何度も家庭訪問に来てくれたが、両親は居留守を使い続けた。最後は電話線を抜いてまで担任との対話を避けた。卒業式にも、やはり誰も来なかった。来てくれたかもしれない祖母はとっくに亡くなっていた。
私は高三の冬休みに上京し、キャバクラの面接を数ヶ所受けていた。入寮希望だったので、その中で寮の部屋が一番いい店を選んで内定を取り付けた。風俗のスカウトもされたが、それだけは無視した。
実家から駅へと行く道にいっこおっぱんちがあるのだが、私は寄らなかった。二人のおっぱはもう魚市場に行き働いていて、のんこさんはまだまだ寝ている時間だ。ガタガタでベタベタな戸の前で立ち止まり、深く頭を下げた。
帰郷せずに四年が経った頃、好きな男が出来た。キャバクラの客だった。客と色恋も恋愛もしないと決めていたのに、同僚とやって来た少年のような男になぜか惹かれてしまった。接客中、彼は私の質問に答えるのみだったので嫌われたのかと思ったが、帰り際私の名刺を欲しいと言った。今まで『好ぎだ』と言われた事はあったが『愛してる』と言われたのは生まれて初めてだった。プロポーズされても結婚する気は全くなかったが、妊娠した。彼のご両親は驚きながらも喜んでくれた。うちの両親には一切告げず、入籍した。
大おっぱが亡くなったのは、私が切迫流産で入院している時だった。その二日後、何とずさまも死んだという。ずさまの死後父から私達が住むアパートに電話が来た。私は住所も電話番号も教えておらず、住民票も戸籍も移していたのだが、いっこおっぱから無理矢理電話番号を聞き出したそうだ。
父から突然の電話を受けた旦那は『おめ誰だ!! 』『何でよっこど暮らしでんだ‼︎ 』『どごの馬の骨だ!! 』『おめによっこぁやられだのが!! 』『何でよっこぁ入院なんかしでんだ!』『どうせ金ねくて飯食ってねがったんだべ!』『甲斐性のねぇおどごだ! 』『一時退院出来ねぇのが!』『おめの監督不行き届きなんだがらおめが葬式さ出はればいいべや‼︎ 』等、怒鳴られ罵倒され続けたという。あまりの言葉に震えたと旦那は言っていた。そこで初めて私が彼にしてきた実家の話が事実だとわかったようで、何度も謝ってくれた。旦那はそこまで言われても自分が結婚相手だという事と私が妊娠しているという事を父に言わなかった。といっても、最初は両親にお詫びと挨拶をする気でいたらしいのだが、この人には絶対言ってはならないと思い直したそうだ。父が連絡して来たのは無論優しさからではない、自分達が葬式に行きたくないから私を行かせようとしただけだ。
私はすぐさま遠い親戚である葬儀会社に連絡を入れ、情報を聞いた。うちの身内の葬儀は全てこの会社でやっている。予想通りいっこおっぱんちは今でいう家族葬を希望していた。急遽ずさまの式もまとめてやる事になったというので、二人分の供花を手配してもらった。いっこおっぱは葬儀会館から私の携帯に連絡を寄越し、父にアパートの電話番号を教えてしまった事を謝ってくれた後、号泣した。
「誰もこんなごとぁしてけねがったのに〜。よっこちゃんありがどう、ほんとにありがどう〜」
しかし父はお葬式の前にうちの留守番へ
「こっちさ来ねぇくせに出過ぎだ真似しやがって‼︎ 自分ばがりいい顔するなんざ子供のやる事じゃねえべ‼︎ おら達の顔潰しどいでただじゃおがねがらな‼︎ この腐れがぎ、よーぐ覚えどげよ‼︎ 」
と吹き込んでいた。花も送らず香典も少なくした自分達のが悪いのに、私のした事が許せなかったらしい。
両親がいなくなったいっこおっぱは、魚市場を辞め介護ヘルパーとして働き出した。魚市場以外の仕事は初めてだったそう。出産後、赤子連れでいっこおっぱんちに行った時には、
「あら〜! 何たらめんけぇごど〜‼︎ 赤ちゃんってちゃっこいねぇ〜。よっこちゃんの赤ちゃんの頃さそっくり! おなごなんだよねぇ、あねさん(私の祖母)さも似でるね! あねさん孫っこ見ってがっだだろうなぁ……。おっぱ手ぇ綺麗に洗ったがら、赤ちゃん触っでもいいがな? あら〜、めんこい〜、めんこくておら涙出そぅだ〜」
と大歓迎、大感激された。こんなに祝福されたのは初めてだったのと、おっぱんちに行く前の出来事があまりに酷過ぎたのもあり、私はつい泣きそうになった。顔を上げられず、そのままいっこおっぱに子供を手渡した。
「ええ、抱っこさしていいの⁉︎ おらこんな手してらけど……赤ちゃん抱ぐなんてよっこちゃんぶりだ〜! 落どさねようにしねば! ああ〜、柔い〜、ちゃっこい〜、軽ぃ〜、いい匂いする〜。めんこいねぇ……めんこいねぇ赤ちゃん……。よっこちゃん、赤ちゃん抱がせでけで、ほんとありがどうね」
いっこおっぱも、下を向いて泣いていた。どんなに洗っても魚の匂いが取れない手を気にしていたようだが、そんなのは関係ない。真っ赤に荒れた手、腫れて太くなった指、滲む血、捲れた皮——魚仕事がどれだけ大変かわからせてくれる手だ。海で働く女の手だ。その手が私にあんな甘くて旨いガニを届けてくれたのだし、その指がガニを剥いてくれたのだ。
子供もいっこおっぱの腕で気持ちよさそうに眠っている。あまりに長い事抱っこしているのでこたつの横にブランケットを敷いて寝かせてもらおうとすると、名残惜しそうに、壊れ物を置くように子供を降ろした。
「名前なんて付けだの? いちか? いちかちゃん? 一に花で、いちか? あらー、おらと同じ漢字だ! なんたら嬉すぃごど……。おら、自分の名前大嫌いで、なんで一子なんて名前付けだんだべっていつも思ってらの。一回勇気出して親さ聞いでみだら『一番目の子だから一子だべ!』っておやず(親父)が言って、それぁないべー、って。でも今、初めて自分の名前好ぎになったよ、よっこちゃん、ありがどうね」
いっこおっぱに習って娘の名前を付けたのではなかった。いっこおっぱの名前を、私は知らなかった。いっこおっぱはいっこおっぱだったから。先にわかっていたら、私は尚更この名前を付けただろう。『一子の一だよ、いっこおっぱから一文字もらったんだよ』と言えれば良かった。なのに私はまた泣いているのを見られたくなくて、その場から離れ、外にあったトイレに向かってしまった。
トイレから戻ると、いっこおっぱは背中を丸めて娘をただ見ていた。いっこおっぱの腕や疲れを心配して娘を下ろしてもらったのだが、その後もずっと娘の寝顔を覗き込んでいたあの姿が蘇る度、もっと抱いていてもらえば良かったと悔やんでいる。本当に、何よりも、悔やまれる。
どれだけ時間が経ったか、いっこおっぱは娘から目を離さないまま口を開いた。
「この子ぁ『宝っ子さん』だね。あねさんも、よぐよっこちゃんのごとそう言いながら抱っこしでらよ。あねさんは抱っこの達人だっだから。おらもあねさんさずっと抱っこしてもらってだんだって。市場ではあねさんさおぶさってだんだって。がっかの背中ではねぐ。あねさん、あねさんは突然逝ってしまったがら、おら何も恩返し出来ねがった……。あねさんには他にも何度も助けてもらったんだ。おらのもう一人のが人のがっかだ。がっかよりも良ぐしてけだ。あねさんの介護してやりってがったなぁ……。そう、介護の仕事、大変だけどおもせえの〜。人がら感謝しでもらえるのよ。親のような年の人がらありがどう、ありがどうって言われるのよ。おら、はぁ、泣がさるぐれぇ嬉しくてさ〜」
その時、
『いっこは、ずさまが倒れでがらずーっと一人で下の世話ぁしでるのさ』
という祖母の声が蘇った。祖母は脳溢血で亡くなる前夜、珍しく私を布団に呼んだ。それは何年ぶりだったか。私は久々に他人と一緒に寝るという行為に緊張し、いたたまれず、そして恥ずかしさもあり眠ったふりをした。さっきの、赤子を見るいっこおっぱのような目で、私は見つめられていた。眠ったと思ったのか、祖母は小さな声で昔語りを始めた。
『ずさまが倒れだのぁ、いっこがまだ二十歳の時だった。ずさまは五十過ぎだどご。自分の嫁でねぐその娘さだげ下の世話させるったらどういうごどだ?「がぎが親の下の世話すんのは当たり前ぇだべ」ど抜かしてがらに! 二十歳の祝いも何もしねで、式さも出させねで。あの腐れずさま、いっこのごどだけでねぐ、のんこのごども、姉さんのごども縛りつけで、体動がねぐなっても縛りつけでがら……。おらほの死んだずさまだってそごまでしねがったが。おらほの息子ぁ、あんなにひねぐれですまったけど……』
『しかしあのあねさんどごの腐れずさまは、喋れなぐなるまで毎日何遍も何遍も「いっこ! いっこ!」ど呼びつけではおしめ換えさせでだんだぁ。ちょっと出だぐれぇで呼びつけでがら! あれぁ、わざっとだった。あねさんがなんぼやるって言っても「おめでね‼︎ いっこでねば駄目だ‼︎ 」ど譲らねがったんだがら』
『全ぐ体動がねぇ訳ではながっだんだし、まだ若がったがらおどごの精もあったみってえで、流石に手篭めにぁしねがったようだども、いっこさ……指図すて……あれは鬼だ。けだものだ』
『いっこさ聞いでもあねさんさ聞いでも「んなごどある訳ね」「心配すんな」「誰さも言うなよ」ど言うだけだったがら、おら、いっこばす
けでやれねがった。あんの腐れずさま、おらが死ぬ時道連れにしてやりってが!!』
こんなに覚えていられる訳がないとか子供にわかる話ではないと言われそうだが、私はあの夜の事を、まるで今起こっているかのように、ありありと、まざまざと思い出していた。親から酷い言葉を投げつけられ続けたからか、個人的な能力か、性質か、私は他人の言葉をそのまま記憶出来る能力がある。ちなみに幼稚園や小学校の校歌などだけではなく、お遊戯会の台詞を今でも言う事が出来る。両親から投げつけられた罵声、罵倒、悪態もそうだ。忘れたいのにどうしても忘れられず、忘れたかと思えばまたふいに蘇って来る。今も聞こえる。
当時はずさまの事もいっこおっぱんちの事も奇妙には思わなかった。体の不自由な人、寝たきりの人、狐憑きと言われる人、気を病んだ人達は田舎に結構いたからだ。いた、と言っても話に聞いただけで実際には見た事のない人も多かった。ずさまの部屋は、昼間でも暗かった。いっこおっぱんちには車がなく、もちろん車椅子などなかった。タクシーを呼んだ事もなかったと思う。往診の医師が来たのを見た事はあるが、家族は誰も奥の部屋には行かず、医師と看護師だけが中に入っていた。家族とずさまとの会話もなかった。そうだ、私はずさまが動けず話せない人なのだと思っていたが、医師や看護師へは奇妙な声を出して質問に答えてはいた。
茶の間でずさまの話をした事もほぼなかった。私が何か聞いてもはぐらかされてばかりいたので、話題にあげるのをやめた。ずさまの食事は朝晩二回だったようだ。多分朝早くと夜遅くに。なぜならそれを見た事がなかったから。おむつ交換もその時だけだったであろう事を、私は今理解した。なぜならそれを見た事がなかったから。
「あ、いらっしゃい」
のんこさんの声が、今、聞こえた。過去の私が答える。
「お邪魔してます、お久しぶりです。えっ」
あらわれたのんこさんを見て私が固まっていると、おっぱはカラカラと明るく笑った。
「のんこ変わったべ〜。働いでんだよ、建設現場で肉体労働頑張ってらの〜。のんこ、よっこちゃんの赤ちゃんも来てけでるよ! まぁずめんこいがら見でみな〜。しかも娘っこだよ! このまま、穢れないまま、しねばいい苦労さしねで育ってけだらいいねぇ……」
以前のややぽっちゃりしたのんこさんはどこへ行ったのか、背は低いままだが引き締まった身体、短いけれど太く硬そうな腕、焼けた肌、姿勢の良さに、本当に誰だかわからなかった。のんこさんは一瞬せつなそうな、苦しげにも見える表情をしたが、身を乗り出して娘を見やり、
「おめでどうございます」
と言ってくれた。手指の毛でのんこさんだと認識出来た私が
「ありがとうございます」
と返事すると、顔を赤くし、頭を下げ、一瞬だけ目を合わせてから二階へ消えた。のんこさんと目が合ったのだ。びっくりし過ぎて体に電気が走った。のんこさんと私の目が合ったのは、後にも先にもこの一度切りだった。
それよりも驚いたのが、
「あらあらすっがり忘れでだ〜。良がったら飲んで〜。おらジュースわがんねぇがら、店員さんさ『子供の飲めるジュースって何だべ』って聞いで買ってみだのす〜。りんごジュースとみがんジュース。虫歯になっかな? よっこちゃん、めんこちゃん(可愛い子)にどれ飲ませだらいいべが〜」
といっこおっぱが大きなペットボトルのジュースを数本出してくれた事だ。飲み物といえばお茶と日本酒だけの家に、何年ぶりかにお邪魔した私の子供の為のジュースがあった。私は娘にそれを飲ませたかった。どうしても飲ませたかった。だが、やっぱりこう言った。
「いっこおっぱごめんね、まだ四ヶ月だから普通のジュースは飲めないんだ〜。代わりに私が飲ませてもらってもいい? あれ、コーラもあるじゃん! ははは、コーラはまだ流石に無理だよ〜」
「あら〜ごめんごめん、まだ駄目だっだんだが〜。そがそが、『赤ちゃんが飲めるジュース』って聞げばいがったんだね! まだ赤ちゃんはおっぱい飲んでらの? そうだばまだジュースぁ早ぇねえ。そうそう、初めでコーラ買ったがらのんこど二人で昨日飲んでみだのさ! まあ何たら甘ぇごどね! 喉さバチバチ来て、たまげで吐ぐどこだったよ。でもコーラってうんめぇね!」
私は言葉に詰まってしまった。首を絞められたようだった。
「よっこちゃん、おらコーラだげでねぐこないだ初めてビール飲んでみだんだよ! コーラみてぇにバチバチしてで、でも甘ぐなぐて、苦くて、ほんとにたまげだよ〜! 事務所の皆さんとお疲れ様会ばして、おなごばかりで飲んだのさ〜。いや〜あれぁ楽しがったなぁ〜」
とにこにこするいっこおっぱ。私は歯を食いしばって泣くのを堪えた。コーラもビールもない家。コーラとビールを初めて飲む五十代。コーラを分け合う姉弟。昔は物がなかったり、高くて買えなかったりしたのだろうが、その後買わなかった、飲まなかったのはなぜか。
でも、そんな環境の中通じ合えるきょうだいがいたのは救いだったかもしれない。私にも兄がいたが、兄の目に私は映っていなかった。両親の目には私が映っていた。邪魔者として。家族の中で私を見てくれたのは祖母だけだった。とは言っても私への愛情表現というものはほぼなかったし、両親からの暴言や悪態を防ぎ切れはしない祖母だったが、彼女は私を虐げもしなかった。勿論兄も私を助けてはくれなかった。のんこさんはいっこおっぱをすけてやっていたのだろうか。
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そんな人々が住んでいた家を、いっこおっぱと皆がささやかな乾杯をした介護事務所を、あの津波は持って行った。
地震当時私はアパートに娘と二人でいた。大きな地震が田舎で起き、同時に東京も揺れて不安を感じていた中、あの緊急地震速報に飛び上がる程驚いた。今まで体験した事のない、もう体験したくもない、物凄い嫌な予感がした。娘をさらうように抱き上げた時凄い揺れが来た。
アパートの三階は信じられない程揺らいだ。叫びながらもドアを開け風呂に水を張った。地震訓練は田舎で嫌というほどやってきたからか、体が動いた。動いた後、外に出るか、中にいるか、迷った。中にいる事にした。津波は来ないだろうと思ったからだ、ここは田舎ではない。そうか、私がしてきたのは地震訓練ではなく津波訓練だったのだ。ここは、あの田舎ではない。阪神大震災の事を思い出さなくてはならない。ああ、あの時とても心配したけれど、結局は他人事だったのかもしれない。都会の地震にどう対処すればいいのかわからない。この部屋に背の高い家具はない。ここは三階。大丈夫か。大丈夫だろうか。娘は私に全体重を預け、絡まるよう抱きついて泣いている。私は泣くまいと歯を食いしばり、ぶるぶる震えたまま娘を抱いて踏ん張った。震えが酷過ぎて自分の震えか地震かわからなかった。実際外まで歩ける状態ではなかった。揺れが収まる前に旦那から電話が来た。
「これから電車も止まるだろうし携帯も繋がらなくなるだろうけど俺は大丈夫だから! 必ず帰るからそれまで頑張って! 後実家に電話してないなら電話して! 今すぐ、後悔しないように! じゃあ切るよ! あ、待って‼︎ 依子、愛してる」
と言われ、私は号泣して床に崩れ落ちてしまった。娘は、自分も怖くてパニックなのに心配して私の顔を見て涙を拭こうとしてくれた。私は泣かないように生きてきた。泣く時は家の裏まで足音を立てず気配を消しながら行き、声を殺して涙を流し、中に戻る時は完全に泣き止んでから入っていた。けれど、この時は全力で泣いた。狂うかと思った。でも、狂う訳にはいかないから、子供がいるから、旦那がいるから、全力で泣き止む努力をした。したが、なかなか涙は止まらなかった。強く娘を抱きしめた。娘が苦しがっているのに気づき、腕を解いて髪を撫でた。娘は私の太ももに頭を乗せた。私は一度も膝枕をされた事がない。旦那と付き合うまではした事もなかった。こんな場所に頭を乗せられる事、他人に無防備に体を預ける事なんて考えられなかった。無論耳かきもされた事はない。娘の髪、頭、背中を撫でながら『本当に田舎に津波が来る』『本当に田舎に津波が来るんだろうか』と、まるで花びら占いのように、心の中で繰り返していた。
テレビの向こうは大騒ぎだった。音を小さくしていたのだけれどその様子はわかりたくなくてもわかった。アパートの外は実際に騒がしかったので様子を見たかったが、友達もいないし知り合いも少なく、まだ今は窓の近くに行かない方がいいと思いドアから覗くだけで出はしなかった。パニックになっている人間がいるとそれが皆にそれが移ってしまう。子供は特にそうだから。
田舎の魚市場がテレビに映った。名称が出ていなくてもそうだとわかる。沿岸の市の名前がずらずらと並び、津波の到達時刻、予想される波の高さが書かれている。それらはどんどん変化していく。まさか。なぜ。何で。幼い頃から数え切れない程聞いていた防災無線の『◯時◯分に地震がありました。念の為避難場所へ移動してください』が、東京にいる私の頭の中に蘇る。今聞こえて来る。避難どころか、地震が小さければ家の外に出る事もなくなっていた田舎の人々。だって、また津波が来るとしてもそれは後何十年か何百年先の事だと思っていたから。東京だって、関東大震災が来る来ると言われていても小さな地震で外に出る人はいない。今は震度五でも誰も飛び出さない。
私は繰り返す余震に震えながらも、なるべく明るく振る舞った。原発の事も心配だったが、放射能が漏れてしまったとしても、今の私に出来る事はなかった。出来るのは急いで東京から脱出する事ではなく、娘を守り、安心させる事だけだった。娘を抱きしめ、娘を撫で、娘に話しかけ、娘の言葉を聞く事だった。そして娘と共に旦那の帰宅を待つ事だった。
甘みのあるジュースを与え、遅くなったが三時のおやつを準備し、子供部屋の襖を開け、娘が大好きなDVDを流して娘をそちらに誘導していった。娘が落ち着き、映像に集中したのを確認し、電話をかけた。実家にではない。いっこおっぱんちへ。いっこおっぱは出なかった。何度かけても繋がらなかった。介護事務所の電話をネットで調べようとしたら携帯が繋がらなくなった。いっこおっぱは携帯を持っていた、持っていたのに、仕事用だからと番号を教えてくれなかった。テレビにはまたあの魚市場が映っている。私は家電からいっこおっぱんちの家電にがけた。やはり繋がらなかった。
田舎の海の波が引いていく。私はそれををLlVE映像で見ていた。LIVEで。波が化け物に変わっていくのを。私の田舎の海が。何でこんなものを生で見なければならないのか。今あの魚市場と田舎で、現実にこれが起こっている。今。そこで。私はチャンネルを変えたいのに変えられず、泣き叫びたいのに声が出せずにいた。声まで出なくなるのかと、腹の底の方から恐怖が込み上げ、娘の名前を、『一花』と呼ぼうとしたら、恐怖ではなく胃の内容物が勢いよくせり上がって来てそばにあったゴミ箱に吐いた。私は吐くのが大嫌いで、込み上げても飲み込むのだがその時は全く堪え切れなかった。飲み込めなかった。吐くのは悪阻以来だなと思った。鼻からもそれは出て、目からはまた涙が流れた。そしてティッシュを取ろうと顔を上げた。上げてしまった。テレビの向こう、波が魚市場を越え始めていた。津波が、町を飲み込み始めていた。この波の色は、何? この波の量は、何? 私こんな波知らない。こんな海知らない。何。何。何。祖母が何度か語っていた津波、違う、それとも違う、これが、津波? 知っている家、通っていた店、波に押されている、流されて行く、何、これ、何が起こってるの、何で私はテレビでこれを見てるの、何も出来ない、テレビを見ている事しか出来ない、何なの私、実家は、いっこおっぱんちは、いっこおっぱは。いっこおっぱは!? もしいっこおっぱんちが流されるのを観てしまったら、あの引き戸を、あのこたつが流されているのを見てしまったら、私は、
私は、テレビを消した。
消して、またつけた。
また消して、またつけた。
噛み締めた歯の奥からけだものみたいな声が漏れた。
やっぱり神様なんかいなかったんだ。仏様もいなかった。いつも、今も、誰も助けてくれない。結局誰も助けてくれないじゃん!! と叫びたかった。私には本当にどうしようもなかった。どうしようもなかった。
その後東京は一時電気とガスが消え、電話も通じなくなった。家にはキャンドルがあり、パン、お菓子、ジュース、お茶などがあって、買い物をしたばかりだったので生活にはしばらく困らなかった。三時間かけて汗だくで帰って来た旦那は、ドアを開け土足で部屋に上がり私と娘を痛い程抱きしめた。旦那は泣いていた。私も子供のように泣いた。子供の私も泣いているようだった。娘が私と旦と旦那の頭を撫でたので、また泣いた。娘はまたティッシュを持ってきてくれて、私達の涙をめちゃくちゃゴシゴシ拭いてくれた。その乱暴さに私と旦那はようやく泣きながら笑う事が出来た。
「とうとう依子の実家に行けなかったなぁ……あ、ごめん。ごめん。ごめん依子」
「いいの。いいんだよ。私が拒んだんだから」
旦那は私の実家に行きたいと再三言っていた。子連れ帰郷の時も、一緒に行ってご挨拶したいと強く言ってくれていた。断固拒否したのは私だ。旦那をあの二人に合わせたくなかった。見せたくもなかった。どうなるかは目に見えていたから。わざわざ傷つきに行く必要などないのだから。しかし阿呆がつく程お人好しで優しい旦那は、大おっぱとずさまのお葬式以降私の目を盗み何度も実家に電話をかけていたそうだ。私との結婚を認めてもらおうとしていたのだ。なのに、『なんでおめはあの時一緒に来ねがったんだ』『嫁に従うなんって男どしだら最高にみったぐね』『嫁っこ一人も言う事聞かせられねのが』と父から責められ、母からは『娘も娘でぁないし、あんたも息子でぁない』と言われてしまった。贈り物をしても返事がないので届いているか電話をすると、父は『あんなの投げだ(捨てた)が』、母は『そんなのぁもらってないがら』と。何をやっても、何をあげても、無駄なのだ。
旦那はそんな二人の安否を、まるで自分の親の事のように心配してくれた。毎日山のような紙の束を持って来てくれた。両親と地域に関わる情報をありったけプリントアウトしてくれたのだ。
私はテレ東のアニメを娘に見せ、娘に三食ご飯をやり、旦那の晩ご飯を作る以外はツイッターや他の掲示板に張りついていた。私が調べていたのはいっこおっぱ、友達、同級生、ご近所さん、行っていた店などの情報。両親の情報を探す事はなかった。二人の携帯番号は知っていたが、旦那が電話をかけても私は電話しなかった。正直全く心配がない訳ではなかった、が、電話が通じても私はまた怒鳴られ、否定され、すぐに助けに来いと言われるかこのアパートに押しかけて来るだろう事を知っていた。津波でまともになる人間もいるだろうが、両親に限ってそれはない。それは私が一番よくわかっている。
この部屋に、ようやく出来た私の居場所に、安らげる、穏やかな、明るい、幸せな、幸せな、幸せな、普通の、普通の、普通の、普通の家庭に、あの二人が浸入して来るなんて耐えられないし、それは絶対に何が何でも阻止しなければならなかった。普通の家庭に育った、人がいい、優しい旦那は、あの二人に簡単に押し切られてしまうだろう。あるいは自分から『うちに来てください』と言いかねない。私は旦那が両親に電話をするのを止めなかったけれど、このままずっと繋がらなければいいと思っていた。旦那は私の事を親身に考え大事にしてくれる、でも『依子の親だから』とあの二人も大事にしようとする。そういう人にはあのような輩の事はわからない。現に旦那は私を宥め、諌る人である。いくら生涯を共にしたいと願う旦那であっても、その隔たりは一生埋まらない。理解されない。しあえない。私は両親を探すふりをしていっこおっぱの行方を追った。
結局、実家にいた両親はすぐに近くの山に上がっていて、無事だった。近くの避難所にいなかった為消息がつかめなかったのだ。隣の市に暮らす新婚の兄、孝が、二人のいる避難所に一週間後に辿り着いて判明した。違う避難所へ移るために母が荷造りを始めていた所で、二人はこれ幸いと兄の車に荷物を積み込んだらしい。二人を探しに来た兄だったが、まさかそのまま自分のアパートに乗り込まれるとは思わなかっただろう。しかしやはりあの父に押し切られ、母に泣き落とされてしまった。父は避難所で数回トラブルを起こしており、母は他人のスペースに置かれていた支給のパンを盗んだのがバレて誰からも見送りをされなかったと後から人づてに聞いた。
兄のアパートは二DKだった。しかも同居について義姉へは何の相談も電話もないまま到着。両親の性格をまだ知らなければかわいそうだと迎えてくれたかもしれないが、本性は隠せないものだし彼らは隠す気もない。義姉は妊娠初期で悪阻の真っ最中だったそうだから、きっと横になれば責められ、吐けば罵倒されていたと思われる。結局重症の悪阻とうつ病という二枚の診断書を残し、二人が来てから一ヶ月後に義姉は自分の実家へ戻った。両親は『何でうぢの息子の面倒見ねぇのすか』『何で被災者のおら達に優しぐしねぇのす』と何度も嫁に電話をかけ、あちらのご両親が義姉に取り継がなくなると『何でてめのわらすの教育も出来ねんだ?』『どんな育で方しできたんだ!』『弱い者にぁ優しくしろって教えねがったのが!』『娘駄目だばおめ達がおら達助けんのが筋でねが⁉︎』『こんの糞がぎ、腐れずさま、腐ればさま‼︎ 』『孫は長男のがぎなんだがらおら達の物だ。うぢの跡継ぎだ! 早ぐ娘ば戻せ‼︎ 』とまで言うようになったらしい。義姉はついに入院した。
ある日身なりのいい代理人と名乗る男性が、義姉とご両親の署名捺印済み離婚届を持ちアパートへやって来た。驚き、狂ったように悪態をつく父と兄に、代理人はまず胎児が流産したと告げた。そして今までの電話の録音と、その回数や時間が印刷された紙、兄と義姉のメールを印刷した紙を差し出した。離婚に応じないなら協議離婚をする、弁護士費用はこれだけかかる、負けたらこれくらい支払う事になる、あちらは慰謝料も何もいらないと言っている、すぐに離婚してくれたら被害届も出さないし裁判も起こさない、と言った。だが今後も罵倒の電話やメールをしたり嫌がらせなどをした場合、この証拠品を白日のもとに晒す、とも。それに両親と兄は大変驚き、焦り、しぶしぶ離婚に応じたという。
この話をなぜ私が知っているのか。義姉の友人が私の友人と知り合いで、わざわざ上京して我が家に寄り、兄と義姉が離婚するにはどうすればいいか相談してきたのだ。流産というのは嘘で、堕胎をしたと言われた時には何とも言えない気持ちになった。私が以前私の結婚を考えなかったのは、子供への心配があったからだ。この血を継いでいいのか、私から子供へこの血を流していいのかと本当に悩んだ。旦那に言う前に一人で堕胎しようかと思っていた。元義姉やそのご両親は、子供には罪はないが離婚してもあの両親が子供の祖父母となる事、繋がりは消えない事、いつまた脅されたりたかられたりするかわからない事、そしてやはり一番には半分あの血筋が入った子供を産み育てる事が不可能だと思い決断したそうだ。私は深く頭を下げ詫びた。私が両親を、兄をどうにか出来たら良かったが、どうにも出来なかったと言った。そして私もずっと同じような目にあっていたと。そして今は関わっていない事も。
その後、父と兄から元義姉一家への連絡は一切ないという。義姉がなぜ兄に惹かれたのか私にはわからないが、大学出で当時は地方ではそこそこ有名な会社に勤めていたからかもしれない。それ以外に理由が見当たらない。私以外には優しかったのかもしれないが。
あれから何年経っただろう。私達はアパートからマンションに引っ越し、家電の番号もメールアドレスも全て変えた。もし彼らがこの部屋にやって来ても、旦那がどんなにドアを開けたがっても、私はドアの前に立ち、チェーンを外す事はしない。叫ばれたりドアを蹴られたりしたら、迷わず通報する。警察に相談にも行くし被害があったら届も出す。奴らは警察や法律、警官、弁護士、先生などにはめっぽう弱いから。私は変わったのだ。強くなったのだ。どんな事があっても、どんな人間からも、家族を守る。
いっこおっぱの行方について。津波の時は、介護事務所にいたそうだ。『津波ぁ来っから逃げっぺし!』と皆から言われたのに、一番よく訪問していた利用者さんを案じてそのご自宅へ向かった。助かった同僚の方は一生懸命止めたのだが、いっこおっぱは
「おらなんかによぐしてくれだ、あの人が親父だったらいがったと思えるおんつぁま(おじさま)なんだー。一人暮らしで脚も悪ぃ、自分で逃げるごどは出来ねぇ。おらも子供いねぇし、一緒に流されだってかまわね。それも幸せさ! 皆今までありがどう! おらの初めでの友達だ、それ、早ぐ逃げで‼ ︎」
と、皆の背中を押したのだという。
のんこさんは。現場が駅向こうだった為津波の難は逃れていた。いっこおっぱを探す為、歩いて避難所を回っていたらしい。最後の避難所についた時知り合いからが駆けつけてきたという。そしていっこおっぱの遺体と対面した。のんこさんは長い事その額を撫でていたという。その後姿が見えなくなり、寮にも現場にも戻らず、今も行方不明のままだ。
なぜいっこおっぱが亡くなり、のんこさんがいなくなり、あの二人が生きているのか。私は神様を恨んだ。運命とかという物をまた憎んだ。今も神様がいるという空を睨んだりもする。私は津波後一度も田舎へ行けていない。小さくつましく、いがみ合いながらも支え合って生きていた田舎の人々、その家、生活、命を、海は奪ってしまった。波はあの魚市場を越え、あるもの全部飲み込み、飲み込んだだけではなく吐き出した。実家もいっこおっぱんちもその基盤さえ残っていない。優しそうに見えても私は海の人間で、気が荒く短腹だから、もし田舎に行ける時が来たなら殺しに行くかもしれない。海を。
私にあんなによくしてくれた、ほんとうに、ほんとうに大好きだった、今でも大好きないっこおっぱを殺した海を。
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気づけば、テレビでは板前がガニの脚を毟り、甲羅を外していた。私はこれが出来ない。ガニを食べる時は祖母や大おっぱやいっこおっぱが綺麗に脚を毟り、殻を剥き、身を刮いで口に入れるだけにしてくれていたから。一人ではガニを食べられない。ガニ味噌も舐めない。あの味が嫌いだから。当時田舎でガニ味噌は男の物だった。女は甲羅に残ったカスや、それと酒を混ぜてあたためた物を舐めるか、そこにご飯を入れてかまして(かき混ぜて)食べるかだった。今は違うのだろうか。
ガニ味噌だけでなく、うちの田舎の女はあまり酒を飲まない。飲ませてもらえない。男は大体毎日飲む。働かない男は昼から飲む。溺れるまで飲む。今、私は『おなご』だけれど酒を飲む。旦那と呑む。つまみを作るのも旦那に酒を注ぐのも気が向いたら、だ。逆に私の方が注いでもらっている。私はそんな事が許される土地に住んでいる。私達の結婚関係や男女関係はそういうものだ。
いっこおっぱとのんこさんは未婚だったが、二人とも若い頃それぞれ機会はあったらしい。それを許さなかったのはずさまだそう。田舎ではよくある話だ。だから私は黙って出産し、いきなり子連れで実家に行った。あの時いっこおっぱんちへ行く前、私は実家に行っていた。久々に、連絡なく帰宅した娘を見て両親はとても驚き、転がるように三和土へ降りた父は顔を真っ赤にして、
「何しさ来た!! おら達の事捨てどいでがら、どの面下げて帰っで来た!?」
と怒鳴った。父は相変わらず昼から酒を飲んでいた。
「お父さん、あれ……」
母が抱っこホルダーに気づき、駆け寄るでもなく、笑うでもなく、父の背後に立った。笑うどころかいつものように恨むような憎むような目で私を見ていた。この上孫までそんな目で見るのか、と、私はまた絶望した。絶望に終わりがないなんて知らなかった。二人は三和土から降りはしなかった。この段差、境界を両親が越える事はないのだと思った。母親は祖母となったのに、孫に触れようとしないどころか近づこうとすらしなかった。名前も、性別すら聞かなかった。生まれた日も。父は死後硬直したのかと思う程固まっていた。私達は静止画の人物のようだった。私は心から何かを諦め、多分家族を諦め切り、家を出ようとした。
「どご行ぐんだ‼︎ まだいっこの所か‼︎ あんな腐れだ、みったぐねぇ家さまだ行ぐのが‼︎ 赤ん坊なんが連れでったら病気になんが‼︎ あのずさまみでぇに寝だきりになっぞ‼︎ 何でがぎ産んだごどおらさ言わねのや⁉︎ 第一おめいづ結婚した⁉︎ おらに断りもなぐ⁉︎ 誰の許可さ得で結婚した⁉︎ 男ぁどごの馬の骨だ⁉︎ おめどごの馬の骨に孕まされだんだ⁉︎ まった(股)緩いがらそうなんだべ‼︎ がぎと二人でこごさ来だってごどぁ、おめ、捨てられだのが、ああーいい気味だな‼︎ おら達捨てで東京なんかさ行ぐがらだべ‼︎ 自業自得だ‼︎ 何だ、おめ、がぎぁ一人で育でられねがら泣きづいで来たのが⁉︎ うぢにはたがし(孝)がいっから、今は他所さ働ぎに行ってっけど、結婚してたがしにがぎ出来だらそれがうぢの跡取りだがら‼︎ おめのがぎがおどごがおなごがそんなのぁ知らねが、いやどうせおめはおなご腹だべな、おなごなんで育でだっですぐ出で行ぐし他の男さやられんだがら育てでも何の意味もねんだ、ああ全く無駄だ無」
一瞬黙ったのでヤバいと思ったが遅かった。父は大量に嘔吐し、離れた場所にいた私達の方にまでそれが飛んで来て、抱っこホルダーに被せていた義母から頂いたおくるみにまでくっついてしまった。父は前のめりで吐き続け、そのまま三和土から吐瀉物の中へ落ちた。続けて父の下半身から最悪な音と匂いがした。脱糞していた。
「あーあ、おめのせいだ。玄関掃除せぇよ、おらもうやんたがら。パンツもおめが脱がせで洗え、風呂場でねぐ外の水道で。おらぼんこ(うんこ)洗う為にこの町さ来た訳じゃねんだから! おめ達の赤んぼぁ、布おむつじゃなぐ紙おむつなんだべ? そんな贅沢してんだがら、たまには汚れ物ぁ洗えばいんだ。自分の親の下の世話すんのぁ当然なんだがら。たまにぁ親孝行したっで罰当たんねべ」
と昔と変わらない、恨むような憎むような、呪うような顔をして母は言った。猛烈に熱くなっていた頭がすっと冷え、全身の血が凍る感じがした。この女は、母ではない。私を産んだ母かもしれないが、【母親】ではない。私はこの面を見るのもこれが最後だと思った。
「あんだの大〜好ぎないっこおっぱだって、ずさまの下の世話して、ひっ‼︎ 」
卑しい顔の横を中身の入ったペットボトルが通過し、部屋の壁に当たりテーブルへと跳ね返った。
「殺されてのが? 」
私は、言った。母と呼びたくもない母へ向かって。
「これがらいっこおっぱんちさ電話したり、家さぶっ込んだりすんなよ? もしやったらおめらのごどぁすぐぶっ殺しさ戻って来っからな。おどけ(道化)でねぞ?」
気持ち悪い程目を見開く母だったものに、思い切り唾を飛ばした。汚物に塗れて動かない父だったものにも、もう一度唾を溜め吐きかけた。命中したかどうかは見ずに玄関を飛び出し、あまり走っていないはずのタクシーを見つけて乗り込んだ。一度も振り向かなかった。
アルコール入りのウェットティッシュでおくるみを丁寧に拭く。義母に頂いた物でなければ捨てていた。ウェットティッシュは二重にしたスーパー袋に入れ、駅の燃えるゴミ箱にぶん投げた。予約して荷物を置いていた駅前のホテルに入り、気持ちを切り替え楽しく一泊した。そして翌日いっこおっぱんちに行ったのだった。
祖母が亡くなった後、いっこおっぱがガニを届けても感謝の言葉もなく機嫌が悪ければ『んなものぁいらねがら‼︎』と怒鳴りつける父にいっこおっぱの心は折れてしまい、それから両者、両家の交流は途絶えていた。だが私があの後いっこおっぱんちに行ったとなればあの父が何をするかわからない。何かすると行っても殺そうとする訳ではなく、電話で怒鳴りつけるか家に乗り込み罵倒し悪態を吐くくらいだろうが。しかし優しい人間には、そのような言葉や表情がとんでもない毒となる。毒は蓄積していく。
なぜあの日、あのままタクシーでいっこおっぱんちに行かなかったかと言うと、いっこおっぱんちに泊まる事が出来なかったからだ。いや、泊まりたいと自分から言った事はない。いっこおっぱが泊まりなさいと言ってくれた事もない。大おっぱものんこさんも、そうだった。いっこおっぱんちには、小さな頃からずっと短時間のみの滞在だった。昼になると大おっぱやいっこおっぱから優しく帰宅を促された。午後に行った場合は、夕方になると昼よりも強めに促された。もしかしたらご飯を見られたくなかったのかも、と今は思う。お金がない時の食卓は他人に見せたくない。私がいっこおっぱんちで食べたのは、せんべい、あられ、漬け物、刺身、焼魚、煮魚、焼イカ、煮イカ、そしてガニだけだった。あるいは子供や若い人が食べるようなおかずがないのを気にしていたのかもしれない。
加えて、ずさまのご飯の様子やおむつ替えを見られたくなかったのかもしれない。のんこさんも毎晩酒を飲んでいたそうだから、その姿も見せたくなかったのか。ずさまも相当なのんべだったと聞いた事がある。温厚なのんこさんも飲んだら人が変わったのだろうか。寝たきりだったずさまにも元気な頃があり、昔は毎晩晩酌してよく吐くまで飲んでいたらしい。いっこおばちゃんも、ずさまのお酌をしている時一度だけずさまから酒を注がれ
「もったいねぇがら残すなよ」
と言われて、おちょこ一杯飲んだら嘔吐が止まらなかった事があったと、祖母があの亡くなる前夜に言っていた。ずさまは甲羅に注いだ酒を飲みながら、突き出した舌で溶け切らないガニ味噌を舐り上げ、吐き続けるいっこおっぱを怒鳴りつけたという。
「おなごがいっちょめぇに酒っこなんか飲むがらそうなんだべ! 自分でタライさ吐げや! おらはそうしてんだぞ! 始末もおめががっかがしろよ! ああ酒っこぁもったいねぇ、いっこになんかやらねばいがった」
大おっぱからタライを受け取るいっこおっぱの顔は真っ赤に腫れ上がり、湿疹だらけになっていた。大おっぱは悲鳴を上げ、ずさまに走り寄った。
「これぁおどげでねえよ! 病院さ連れで行がねば!」
「うわあ、何たらみぐせ(可愛くない)ごと! いやぁみったぐね(みっともない)、汚らすね(汚らしい)、このガニっこみってぇだ‼︎ これだば嫁さは行げねな、家がら出ねぇでガニみてぇに暗いどこにいるしかねえな! 病院なんて駄目だ駄目だ、この面誰がに観られだらおらまで笑われるが村八分にされですまうが‼︎ もう市場さも行ぐなよ、まずあそごは男ばっかりだからな! いっこは一生家さいで、おらさ毎日酒っこ注いで、おらが死ぬまで面倒見でればいいんだ‼︎ 」
ずさまは、こたつの上のおちょこをいっこおっぱに投げつけた。おちょこは振り向いたいっこおっぱの額に当たり、割れた。額から赤い血が出た。血もなかなか止まらなかった。ずさまは自分が飲んでいたおちょこの酒を甲羅に移し、新たに酒を注いでいっこおっぱに飲ませていたのだ。もしかしていっこおっぱは、結構重度の甲殻アレルギーだったのかもしれない。
大おっぱはいっこおっぱの傷の手当てをし、冷たい水を含ませた手ぬぐいを何度も換え一晩中冷やし続けた。何度吐いても、少しずつお茶を飲ませた。汚れた口の周りや髪の毛を拭いた。大量の洗濯もその合間にやっていた。明け方電話を受けて駆け付けたうちの祖母も手伝った。いっこおっぱの顔の腫れも嘔吐も落ち着いてきた頃、トイレに起きたずさまがそれを見て、
「がっかが余計な事しやがって! いっこも治ったんだば今がらでも市場さ行げや! おめら二人がうぢの稼ぎっと(稼ぎ人)なんだがらよ‼︎ 」
と吐き捨てたそうだ。
二人は本当に魚市場に行った。いっこおっぱは髪の汚れを隠すため、手ぬぐいを巻いて家から出た。普段よりだいぶ長く、夕方まで雑務をこなし帰宅すると、茶の間にいるはずのずさまのんこさんもいなかった。呼んでも返事がない。内風呂がないので一家は一日か二日置きに近くの宝湯に通っていたのでそれも考えたが、二人は昨日いったはず。いっこおっぱが二階に上がりかけた時、大おっぱの絶叫が響いた。
当時家の外にあった汲み取り式のぼっとん便所に、ずさまは沈みかけていた。のんこさんは朝から具合が悪く二階でぐっすり寝ていて何も気づかなかったそうだ。ずさまは一命をとりとめたが、感染症にかかり入院する事になった。昔はぼっとん便所に落ちる子供が沢山いて、引き上げた後は体を洗って普通に生活していた。亡くなった子の話は聞かない。体が丈夫な子が多かったのか、家族が話さなかったからか。
ずさまが便所に落ちた理由は、足が滑ってバランスを崩したからだという。入院後肝臓病と脚の骨折も判明した。しかし感染症が落ち着くと、これ以上の支払いは無理だと強引に退院。処方された薬は飲まず、通院もしなかった。退院当日から大おっぱに酒を出させ、いっこおっぱに注がせて飲んでいたそうだ。ずさまが寝たきりになったのはその年の事らしい。
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「取れたての毛蟹をこれだけ詰め込んでこのお値段! 数量限定です、今すぐにお電話を‼︎ 」
はっとしてテレビに目を向けると、ガニと電話番号が映し出されていた。
私はスマホを引っつかみ毛蟹注文の電話をかけた。繋がらない。でもこの数量限定は基本嘘だからガニは必ず買える。そういえばガニを買うのは初めてだ、いつももらっていたから。このガニはうち田舎で水揚げされたガニではないけれどかまわない。私がガニを食べたいと思えた事、自分でガニを買う事に意味と意義がある。ガニを肴に、いっこおっぱと、のんこさんと、大おっぱへ献杯したいのだ。
最近日本ではまた大きめの地震が頻発している。私は小さな揺れも感じる体質らしく、それをよく感じている。以前私がそれを感じ続けていた時、あの地震と津波が来た。それをいっこおっぱに伝えていたら。何も変わらなくても。それでも。
「お電話ありがとうございます。【毛蟹ガニガニとくとくセット】のご注文でよろしいでしょうか?」
【毛蟹ガニガニとくとくセット】というネーミングがツボにハマり、笑いを堪えて会話をしたのできちんと注文出来たか不安だが、とにかく電話はあちらから切れた。視線を感じて顔を上げると、茹でられ赤くなったガニの顔が画面いっぱいアップになっていた。ガニーー毛蟹は形だけでなく顔も本当に恐い。何かを睨み、恨み、呪っているかのように見える。どこかで見た事がある顔つきだなと思ったら、それは、母だった。
「まだ寝てないの?」
旦那が起きて来て、優しい声で語りかけてくれた。『あんだぁまだ寝でないの⁉︎』ではなく『まだ寝てないの?』と、優しく。そうだ。ここに母はいない。母と同じ顔をしたガニが画面にいても、ここは東京だ。私達の家だ。
「テレビ通販でガニやってたから、懐かしくてつい頼んじゃった。勝手にごめんね」
「ガニ? 蟹の事? それ依子んちの方言?」
生まれも育ちも東京の旦那が、笑いながら肩に手をかけてくる。私はその手を胸の方へ引いた。赤くもない、毛はあるが濃くはない、その手指をなぞる。
「毛蟹だよ。うちの田舎では『ガニ』っていうんだよ」
「毛蟹!? へえー、俺食べた事ないんだよね。いいね、酒のつまみだね! いつ届く? いやぁ楽しみだな〜、これで仕事頑張れるわ」
一瞬、画面のガニが小さな口を開けたように見えた。母の恨み言がまた蘇りかける。私はあの時のようにガニを見据えた。しかしガニは口を開かない。罵倒しない。貶めない。今の私はガニ味噌だって舐める事が出来る、嫌いだから舐めないだけ。ガニは母ではない。母は私ではない。私は母のようにはならない。
不意にあの味が舌の上に蘇り、勝手に口が開いた。
「依子気が早過ぎ、エアガニしただろ! やらしい顔して! ガニが届いたら、一緒に飲もうね。……依子、なんで泣いてるの? 大丈夫!? 俺まずい事言った!? ごめんごめん、泣かないで」
抱きしめられて人のあたたかさを知る。私はエアで今いっこおっぱを抱きしめている。あの家のにおいがする。浜風を感じてる。
海の、魚の、血の、いのちのにおい。いっこおっぱの血は私に流れていなくても、通じている。
似通い、血通っている。