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心の声がやかましい【打ち上げ】

ここに出てくる登場人物はひと言も声を発しません。このドラマはすべて登場人物の"心の声"だけで構成されています。沈黙の裏には、豊かでやかましい心の声があるのです。

【登場人物】
・二谷ともひこ(23)映像制作会社の新入社員
・吉武重吉(58)クライアントの部長
・勝俣よしみ(43)映像制作会社のプロデューサー

CMが完成した打ち上げで貸し切りにされた有名イタリア料理店。19時から開始の予定だが、30分早く着いてしまった人達がいた。

二谷ともひこ(23)・・・(やばい。早く着きすぎた。こんな場違いな高級な店、来たことないよ。早く誰か来てくれないかな?何していいか分かんないんだけど。斜め前に座ってるおじさん、絶対偉い人だよな。撮影現場でチラッと見た気がするけど、その時名刺交換してないんだよ。てか、さっきも挨拶し損ねた。え?こういう時って、下の者から挨拶していいの?うわ〜、全然分かんねえ。)

吉武重吉(58)・・・(しまった。この若者に挨拶し損ねたぞ。いや、向こうから挨拶しに来ると思って油断してたんだ。席に座って1分過ぎちゃったらもうダメだ。今さら遅い。仕方ない。こうなったらぶっきらぼうな、ちょっと偉そうなクライアントを演じるしかないか。いや、オレってそういうキャラじゃないんだけどな〜)

二谷・・・(なんか、この人怒ってる?やっぱり目下の者から挨拶するべきだったんだな。でも今さら遅いよ。1分過ぎちゃってるよ。今さら挨拶したら、じゃあ何でさっきは挨拶しなかったんだって話になってくる。余計怒られるぞ。いや、オレってさ、ずっと体育会系だから先輩に挨拶するのなんて、普通に出来るんだけどさ、何で今回やらなかったんだよ。オレのバカ!こうなったらもうバカな若者演じるしかねえじゃん。)

吉武・・・(なんかこの若者もちょっとふてぶてしい感じあるな。いやいや、その方がこっちも助かるんだよ。真面目な好青年だったら逆に困るんだよ。世の中を何も知らないバカであってくれ!)

二谷・・・(でも、こんなにふてぶてしい感じ出すと、後でやばいことになるかな?このCMのシリーズが打ち切りになっちゃったりしたらオレのせい?それマジでやばいじゃん。え?今からでもキャラ変して挨拶するべきか?)

吉武・・・(なんでこっちをチラチラ気にするんだよ。正々堂々とバカはバカとしてオレを無視しろ!その方がこっちは助かるんだ!)

ウェイターによって、ぞれぞれのテーブルに数本の瓶ビールと数個のコップが運ばれてくる。

二谷・・・(何で瓶ビールなんだよ。目下の者から目上の者にお酌するやつじゃねえかよ。てか、まだ早いだろ。もっと開始時間ギリギリに運んで来いよ。何でここのテーブルの空気読めないの?あんたら高級イタリアンなんだろ?そのぐらいの空気感読めなくてどうすんだよ。)

吉武・・・(ビールが来たか。これはこの若者の敗者復活戦だ。最大のチャンスが来たぞ。今すぐオレにお酌するんだ!そうすればすべてが丸く解決する!頑張れ!早くオレにお酌しろ!カモン!)

二谷・・・(いや、ここでオレがお酌すれば、この変な空気も終わるんじゃねえか?多分そうだよ!チャンス来たよ!え、いや、どうかな?え?どうしたらいいかな?え?チャンス?え?どうなの?行くか!)

二谷が自分の目の前のビール瓶を掴む同じタイミングで、吉武も自分の目の前にあるビール瓶を掴む。吉武はその手で自分のコップに手酌してしまう。

吉武・・・(何たる事だ!オレが一瞬早まった!何であと3秒待てなかったんだ!神よ!この若者がオレにお酌しようとしたじゃないか!なのにオレはそれを待ちきれずに、目上であるこっちからお酌しようとしてしまったんだ!バカ!偉そうなクライアントなのに実はいい人だったと思われたかったんだ。それは正直に言うよ。でもなぜ、そのあとに自分のコップに手酌しちゃったんだよ!それはないだろ〜オレ!いい歳してそれはないだろ〜オレ!)

小さなコップでビールをひと口飲む吉武。

二谷・・・(え?どういうこと?ここはお互い自分で手酌し合おうってこと?ますます分かんねえ!てか、やっぱこの人怒ってんじゃねえの?そうじゃなきゃ、こんな偉そうな人が自分から手酌しないよな。宣戦布告だろ。やっべー。)

吉武・・・(若者よ、すまん。キミは今、どん底に突き落とされているだろう。わかるよ。わかるよ。こんな偉そうな見た目のオヤジが目の前で手酌を始めちゃったんだ。怖いだろ?オレだったら怖いよ。逃げ出したくもなるよ。でもキミは偉い。この場から逃げてないじゃないか。その肝の座った覚悟、オレは認める。そしてオレは手酌を反省している。打ち上げが始まったらみんなに言うよ。キミに大きな仕事を任せたいって。)

二杯目を手酌する吉武。

二谷・・・
(うわ。二杯目も手酌してるよ。完全に流れは出来たな。このテーブルのルールは手酌なんだ。この偉い人がやってるんだから。てことはさ、そのルールでやらないと失礼になるってことじゃん。)

手酌で飲み始める二谷。

吉武・・・(やべえ。この若者怒ってる?こんな偉そうなおじさんを目の前にして手酌するって、そうとう頭に血が上っちゃってんじゃん。え?なんかここに置いてあるナイフとフォークが怖いんだけど。逆恨みからの殺人とかよくあるじゃん。やめてくれ!そんなつもりはないんだよ!誤解なんだ!ボタンの掛け違いなんだよ!許してくれ!)

二谷・・・(わ!なんかこのおじさんの顔が歪んできたよ。そのうち怒って席立っちゃうんじゃねえの。やっぱり手酌まずかったかな?手酌ってかなり失礼に見えるもんな。でもさ、このルールを作ったのはこのオッサンなんだよ。先制攻撃してきたのはそっちだろ。いや、もう何でもいいや。いいよいいよ、オレがクビになればいいんだろ?それであんたの気持ちも収まるんだろ?フザケやがって!)

二杯目も手酌し、一気に飲み干す二谷。

吉武・・・(ほら、完全にやばいじゃん。酒飲んで正気失ってオレを刺す気だ。ほら、目が座ってきた。怖い。助けて。こっち見てる。早く誰か来いよ!下請けの会社なんだから早くプロデューサーとか来いよ!てめえらのこの部下を何とかしろよ!おい!制作費払わねえぞ!次の仕事の制作会社変えるぞコラ!)

店に入ってくる勝俣よしみ(43)。勝俣の視線の先では、おのおの手酌で瓶ビールを飲みながら睨み合っている二人。二谷は二本目のビールを飲み始めている。

勝俣・・・(やべえぞあれ。何があったか知らないけど、やべえぞあれ。電話かかって来たフリして一度店の外に出よう。じゃないとやべえぞあれ。あそこに飛び込んでいく勇気ないわ。ごめん。うわ、両方こっち見た!早く店から出なきゃ!)

スマホを耳元に当て、そそくさと店を出ていく勝俣。

二谷・・・(逃げたなおい!完全に逃げただろ!オレを生贄にして逃げただろ!許さねえ!)

吉武・・・(おい!プロデューサー!逃げるな!お前がそこで逃げたら死が待ってるぞ!)

壁に映写されているプロジェクターを調整している店員。完成したCMが大音量で流れるが、すぐにミュートされる。

それぞれのテーブルに、大きな皿に盛られたサラダとパスタが、取り皿と共に運ばれてくる。サラダとパスタの中には取り分け用のトングが入っている。

店の入り口から大勢の人が入って来る声が聞こえる。

壁にかかっているクラシカルな時計は、18時58分を差している。

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