なぜ人の育ちと学びに関わる仕事をするのか?
自分の仕事のフィールド、大好きなのは人の育ちと学びに関わること
大好きな音楽をしているときにも
この人はどんな体験を通したら、さらに音楽の楽しさを知ってくれるだろうか
今後どんな関わりをしたら、音楽の広がりを実感してくれるだろうか
常に考えています。半分趣味モードで過ごしていますが、『人が育つ』『人が学ぶ』そして『何かに気付く』というのは、とても面白い。
その反面、ついついせっかちなので。焦ってしまいがち。イライラしてしまいがち。
自分自身も思い通りにならないとイライラしがち。
学びを支える人の立場としてやりがちなのが、『人との距離近すぎ』問題。
なんとかしてあげたい、と思うあまりに、その人に感情をいれこみすぎてしまったり、ついつい期待しすぎてしまったりということが、逆効果に働いたりしてきます。
なんとかしてあげたい、と、相手のなんとかなりたい、の気持ちがマッチしたとき、本当の意味での『学び』が成立するんでしょうね。
だから、人の育ちや学びに関わる人にとっての大きな仕事は『待つ』ということ。
待つって、ただじっとしていることじゃなくて、タネをまいて、水をやりながら、楽しみにしておく、っていうことを待つ、と言います。
ゆっくり考えたい人には、ゆっくりでもどんどん考えてもらえるようにタネをまいて
せかせかやりたい人にも、タネをまきつつ時々『え!?』と思わぬ展開に戸惑うことも楽しめるようなタネをまいて。
こういう人との関わり方をする人のことを、多くの人は先生、と思うのですが
先生って、とても面白そうでしょ?
なのにブラックって言われるのは、どんなところからでしょうか?
どんなところが『時代遅れ』『社会経験がなくてダメ』『世間知らなすぎ』なんでしょうか。
この辺りは、人の学びと育ちを育てる関わりをする仕事、という点や、個人の性質とそれをどう育てるか、
社会が描く先生像って何か、それが教育の論理とマッチするのかどうか、先生が全部を背負う必要があるか、制度的なこじれはないか、教育と社会の協力体制が十分に整えられているか
など、視点は様々です。
先生たちの仕事は楽しいけれど、ブラックに感じる部分は上記のように多岐に渡ります。
こんな楽しい仕事をしている先生たちを、どうか応援して、一緒に人が育つのを楽しんでもらえたら嬉しいです。
というのがぼくの願いです。