1981年本郷
【解題】
斉藤龍一郎さんが亡くなったときに書いた文章。2020年12月20日の日付がある。
「この年齢になると、未来が短く過去が長くなって来る。僕は過去を振り返らない方だが、それでも思い出すことはたくさんある。」
とあるが、それから4年経って、いよいよ過去志向になった。
立岩真也も去年亡くなった。僕より1つ年下なので早すぎる死ではあるが、50代になってから急に老けた感じだったので、亡くなったときに驚きはなかった。
赤レンガではポケット盤(以前借り猫こと金子義隆さんが紹介されていたもの。使いやすかったので復刻してほしい。)で詰将棋をやっていた。
その頃、大学8年生の三好さんという人がいた。彼は大学に不当処分されて裁判を闘った人で、元第四インターの活動家だった。とは言え、全然怖い人ではなく、気のいい文学青年だった。その彼が駒を動かしている僕を見て「世の中には暇な人がいるんだな、と思う」とニコニコしながら言った。僕はちょっとだけカチンと来て「第四インターの活動やってた三好さんもけっこう暇やんか。」と思ったことを憶えている。
斉藤龍一郎さんが亡くなった(Facebook)。肝細胞癌で闘病中だったと言う。数年前まで参加していた障害学会大会で彼を見かけることがあった。しかし交流はなかったので、闘病も知らなかったし、訃報も僕には唐突だった。
彼を知ったのは40年ぐらい前に遡る。
僕はその頃、東大文学部にいた。と言っても本郷キャンパスに行っても、教室にはほぼまったく行かず、昼間は文ホール、夜は赤レンガでゴロゴロしていた。そこで何をしていたかと言うと、同じようにゴロゴロしていたW君と将棋を指したり、詰将棋を作ったりしていた。
とは言え、文ホールや赤レンガは「活動家」の棲家である。僕も、当時の保安処分反対運動に興味があって、活動っぽいことも少しはしていた。
その赤レンガにちょくちょくやって来たのが斉藤さんだった。ただし、当時は「大将」と呼ばれていて本名は知らなかった。ちなみに文ホールには当時農学部だった高橋さきのさん(翻訳家)なども出入りしていた。
斉藤さんは赤レンガで、狩野靑史さんやW君、H君と話していたと思う。僕は話題に関心がなかったのか、人見知りしたのか、直接話した記憶がない。何となく「活動家」っぽいと敬遠していたのかもしれない。ちなみに狩野さんは(例の)Y病院の看護助手のバイトとかをしていて、その後医学部に再入学した。しかし在学中(だと思う)クモ膜下出血で亡くなった。それをW君から聞いたのはだいぶ後になってからのことだ。
立岩真也さんが斉藤さんのインタビューをしている。狩野さんの名前も出てくる。立岩さんは狩野さんについて「医者を批判するためには医者になんなきゃいけないみたいなことを思ったんだろうね。」と言っているが、狩野さんは陽和病院の医療に対しても(いや、対してこそ)批判的な視点を持っていたのだろうか。彼が生きているうちに会えていたら聞いてみたかった。
インタビューには他にも懐かしい名前が何人も出て来る。高橋元基さんが教授になっていたり、合原さんが社長になっていたり、というのは知らなかった。みんな偉くなるものだ(笑)。
この年齢になると、未来が短く過去が長くなって来る。僕は過去を振り返らない方だが、それでも思い出すことはたくさんある。もちろんほとんどが断片的なのだが、妙な感慨にふけってしまう。
文ホールと赤レンガの時代は僕にとっては寄り道だったと思う。その界隈にいた人たちともその後交流はない。斉藤さんについても、障害学会で見かけても言葉を交わしたことはないし、そもそも彼は僕を認識していないだろう。
とは言え、近いところにいた人ではある。交わらないまでも、僕と斉藤さんがやって来たことの方向は違っていないと思う。その方向という意味では、斎藤さんは一貫した生き方をした人だ。
亡くなってからでは遅いかもしれないが、敬意を表したい。