「此邦ニ生マレタルノ不幸」―ハンセン病と「精神病」

【解題】
過去にメーリングリストに投稿した文章。2001年という日付があります。この年は、前半は東京のY病院、後半は北海道のU病院に勤務していました。
呉秀三の「此邦ニ生マレタルノ不幸」を日本の精神医療を批判する文脈で用いる人がいまだに多いのですが、東京帝大教授であり巣鴨病院(今の松沢病院)院長であった呉こそがその日本の近代精神医療を作った張本人であることは少し調べれば分かることだと思います。


医療関係のMLに投稿した二つの文章。
近代国家の立ち上げから今日までの,日本の精神医療の歴史をたどり直す作業が必要だろう。それは今後の精神医療改革役立つであろうし、精神医療という射影面から日本という国家を逆照射することにもなると思う。
その際、ハンセン病医療の歴史を傍らに置くことが有効であろうと私は考えている。
これは拙劣ではあるが、そのための私なりの予備的試みである。
SUBJECT:△「此邦ニ生マレタルノ不幸」(Re: ハンセン病と精神病)
2001-05-29
細かい話、しかも長文なので、興味のない方は読み飛ばして下さい。
藤野豊氏―ハンセン病問題に関わってきた歴史学者。きのうの「ETV2001」
にも出ておられました―の『強制された健康―日本ファシズム下の生命と身
体』という本を読みはじめたんですが、そこに次のような一節が・・・。
そろそろ寝ようと思ってたのに、目が覚めてしまいました(^_^;)
(引用ここから)
1916年(大正5)、第二次大隈重信内閣は、内務省に保健衛生調査会を設置する。調査会は、内務次官を会長とし、専門の医師が多く参加し、内務省の衛生行政に対し意見を述べるだけでなく、具体的に法律を立案したり、種々の調査を実施していく。ここでその焦点となった項目は、乳幼児・児童・青年の健康、結核・性病(花柳病)・ハンセン病・精神障害の予防、衣食住の衛生、農村衛生などであり、防疫に終始したそれまでの衛生行政を脱却し、国民全体の体力を強化し、それまで十分な対策が打たれなかった「慢性の感染症」や精神障害の予防にも取り組む姿勢が示されていた。そこには、健康であることが個人のためのみではなく、国家のため、民族のためであるという認識が成立していたのである。
1917年6月、恒例の地方衛生技術官会議の席上、内務省衛生局長杉山四五郎は、今、欧米各国では「民族衛生」という考え方が広まっているという認識のもと、結核・性病・トラホーム、その他の地方病とのたたかいの必要を訓示した (『大正7年六月衛生技術会議ニ於ケル訓辞並講演』1919年)。
「民族衛生」とは、民族・国家の発展を医学的に進めるために、具体的には、結核・性病・ハンセン病などの「慢性の感染症」、遺伝と決めつけられていた精神障害・知的障害などを予防し、心身ともに優秀な人口を増殖させようというもので、その根底には優生学(優性思想)が横たわっていた。民族衛生政策は優性政策と言い換えてもよい。
以後、この調査会でも、精神病院法・結核予防法(1919年公布)・花柳病予防法(1027年公布)などの原案が作成され、日本の衛生行政も「民族衛生」に次第に接近していくことになる。
(引用ここまで)
この記述によれば、1919年の精神病院法は、「遺伝と決めつけられていた精神障害・知的障害などを予防し、心身ともに優秀な人口を増殖させよう」という民族衛生の思想のもとに立法されたもので、本質的にはらい予防法と同じく隔離絶滅を目標としたもの、ということになるでしょうか。
以前次のように書きました。
中でも少し調べて気になってきたのが、こうした国の政策に寄与した指導的医師の役割です。精神疾患の場合、ハンセン病における光田健輔に相当するのは誰なのか?あるいはそれは呉秀三ではないのか?精神医療の歴史については詳しい方ではないし、また呉秀三についても詳しくないのです が、「素朴な疑問」としてそう思いました。
呉秀三(東大教授、巣鴨病院―今の松沢病院―院長)は、私宅監置の状況を調査し、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生マレタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ。精神病者ノ救済ト保護ハ実ニ人道問題ニシテ、我邦目下ノ急務ト云ハザルベカラズ」と語り、それを正当化する精神病者監護法を批判しました。
それを受ける形で精神病院法が制定され、公立病院が設置されて行きました。ただし!精神病者監護法は戦後まで残り、それに代わって制定されたのが精神衛生法でした。つまり、精神障害者に対する国家的な隔離収容がその後一貫して推進された訳です。
確かに、当時私宅監置など悲惨な状況に置かれていた精神障害者が多かったことは事実でしょう。しかし、それがすべてでしょうか?光田ら隔離収容政策を推進した医師たちがそうであったように、呉らも精神障害者が置かれた状況をことさらに悲惨に描き、哀れんで見せた、ということはないでしょうか?
この「此邦ニ生マレタルノ不幸」というせりふを含む呉秀三の『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』が出版されたのは1918年であり、1919年の精神病院法はこの論文の功績とされるのが「定説」です。
だとすれば、呉秀三が「民族衛生政策」を推進した保健衛生調査会とどのように関係していたのか、ということが気になります。
いずれにせよ、このような歴史的文脈で見るとき「此邦ニ生マレタルノ不幸」というせりふが精神疾患・精神障害を持つ人の立場に立ったものと見るのは無理がある、と思えてきます。少なくともその評価にはより詳しい実証的研究が必要かと思います(誰かやってくれないかなあ・・)。とりあえずそれまでは、「此邦ニ生マレタルノ不幸」は引用しないようにするのが賢明かと思います。
SUBJECT:△「此邦ニ生マレタルノ不幸」(Re: ハンセン病と精神病)・続
2001-06-04
さて、一人でやってる「此邦ニ生マレタルノ不幸」ネタです。
興味のある方はご笑覧下さい。
まずちょっとおさらい・・・。
呉秀三(東大教授、巣鴨病院―今の松沢病院―院長)は、私宅監置の状況を調査し、「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生マレタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ。精神病者ノ救済ト保護ハ実ニ人道問題ニシテ、我邦目下ノ急務ト云ハザルベカラズ」と語り、それを正当化する精神病者監護法を批判しました人です。
そして、それを受ける形で精神病院法が制定され、公立病院が設置されて行
きました。
彼の「この国に生まれたる不幸」という言葉は現在でも、日本において精神障害をもった人たちがもっぱら隔離収容の対象とされ、不当な扱いを受けてきたことを主張する際によく引用されます。そこでは呉は「善玉」であり、精神障害を持った人たちの境遇に心を痛めるヒューマニストという扱いです。
しかし、これは本当だろうか、というのが私が以前から持っている疑問です。
特にハンセン病政策と対比するとき、そこで隔離収容をすすめた中心人物である光田健輔と同じような役割を呉は果たしたのではないか、と疑問がふくらみます。
光田たちがそうであったように、呉も世に住む精神障害を持った人たちをことさらに悲惨に描き、隔離収容のスプリングボードにしたのではないだろうか、と思うのです。
そして前回は、呉の功績とされる精神病院法が戦前の国民衛生という名の優生政策の中で制定されたものであることについて述べました。
さて、今日「精神医学史研究」という雑誌に次のような文章が掲載されているのを見つけました。
中谷陽二:精神病者監護法はなぜ制定されたか
これは第四回精神医学史学会会長講演を起こしたものです。
以下、私が重要と思った部分を引用します。◯が引用、●が私のコメントです。
1.精神病者監護法が制定された背景(1899年帝国議会の審議より)
◯政府側は、精神病者監護法も、条約改正の条件とされた外国人の活動を保障するための国内法整備の一環であり、条約改正実施にともかく間に合わせようという腹づもりのあったことを議会での答弁が示唆している。
このように精神病者監護法案は当初、国家的悲願である条約改正のタイムリミットに向けられた雑多な案件の一つとも言うべきもので、直接には内発的動機よりも外圧に促された動きであった。
●条約改正とは、徳川幕府が締結した治外法権などを定めた不平等条約の改正のことです。当時、精神障害をもつ人たちについて主たる社会問題と見なされていたのは路上徘徊でした。これはハンセン病の場合と同じであり、「文明国」の仲間入りを目指す明治国家はそうした存在を「野蛮」として発見したわけです。
2.精神病者監護法の意義
◯従来、精神病者監護法については、「治安的色彩が強い」というように、危険な患者の隔離を目的とする社会防衛的性格が強調されてきた。しかし実際の審議 (1899帝国議会における法案審議)のなかでは、医療原理を明確に打ち出す意見も少なくなかったことは特筆される。公衆の安全の必要性と、患者本人の法的、身体的保護の必要性との拮抗がすでに鮮明になっていた。
●「特筆される」かどうかは保留。ここでむしろ読みとるべきなのは、医療と公安が目的として拮抗はしても相反する訳ではないということではないでしょうか。
少なくともパターナリスティックな医療の場合は。現在でも「本人のため」と言いつつ実は「社会のため」ということは精神医療の場合あります。精神保健福祉法がそもそもそういう性格のものです。
3.「伝染病」としての精神病
○ここで、精神病者監護法の立法を促した動因の深層を探るために、明治時代の衛生政策との関連へと視点を変えてみたい。そのヒントとなるのは、呉が1906年に精神病院設立推進のために開催した談話会での大隈重信の講演である。「時として精神病は伝染病だ。この伝染は実に恐るべきもので、ドンドン社会に伝染する。社会が病的のようになる。どうかすると国家が病的になる。」「(精神病者は)国家がこれを監護しなければならぬ。何となればホッタラかして置くとこの伝染病のためにドンドン国家が病的になっては大変である(・・・)。
ペストとか、コレラとか、チフスとかいうものは交通遮断をしてこの病毒が社会に及ぶことを予防するものである。精神病も同様である。」大隈の発言についてとくに注目されるのは、コレラやペストにたとえて精神病を一種の感染性をもつ病気と見なしている点である。感染する病としての精神病という観念あるいは隠喩は、前述した精神病者監護法の提案理由にある「精神病が社会に害毒を流す」というくだりにも示されている。洗練された学識をもつ呉でさえ、ある論文の中で、「精神病者が仮面に隠れて害毒を流す」と主張している。
●ここには特に注目したいです。
この背景には猖獗を極めたコレラによる明治国家のトラウマがあるのかもしれません。しかし、それにとどまらず、感染症という隠喩は昔も今も強力です。「伝染病」と言えばもはや医学用語というより、姿が見えず蔓延し、国家を内部から破壊するもの、という隠喩的意義が前面に出ていると言えるでしょう。まさに「仮面に隠れて害毒を流す」です。今日では在日外国人がそういう存在として語られることがあることにも注意したいです。
感染症と見なされて隔離収容、遺伝病と見なされて断種、これも精神病とハンセン病に共通します。ここでは医学は国策の推進のために都合よく利用されているだけです。それゆえ、精神病が感染症という医学的には明らかなナンセンスがチェックされることもありません。
4.ハンセン病と精神病
◯癩対策の背景には文明国としての外観を整えることへの人々の願望が明らかに認められる。これは「癩予防に関する件」の審議が日露戦争の戦勝の時期に一致し、国家意識の高揚に煽られたことにもよるのだろう。この点で精神病者監護法が審議された時期に較べ、雰囲気が明らかに変化している。速記録からうかがわれる法案審議の模様は、精神病者監護法の場合はおおらかなものであるが、癩予防法案の場合には声高に国家の大問題として論じられている。
とはいえ、精神病者監護法案の提案理由にある「精神病が社会に患害を流す」という表現にこだわると、癩対策と精神障害者対策との間に連続性を見ることは不合理ではない。この言葉は実体のないレトリックに過ぎないとしても、立法を促進あるいは是認する人々の意識にアピールするものがなければ、あえて使われることがなかっただろう。訴えようとしたのは、精神病が社会をひそかに汚染し、文明国家としての日本の存立を危うくすることへの不安なのである。
●精神病者監護法にしても癩予防に関する件にしても、まずは路上生活する病者がターゲットにされたのです。これは単に公衆衛生の問題ではありません。
別の箇所から引用すると、「1900年に警視庁は諸車、牛馬の左側通行をはじめて規定した道路取締規則を定めたが、これは交通の管理ばかりでなく、風紀に関する規定も多く含んでいる。袒褐(はだぬぎ)や異様な扮装での行商、物乞いなどの「醜態」が禁じられた。文明開化以来の警察の風俗取り締まりの中心は路上にあり、未開、野蛮とみられる旧習が欧米人の目に触れることが極端に恐れられた。」当時、路上を上半身裸で歩く人というのはごく普通に見られたのです。
しかしこれは過去のことかというと、そうでもないように思えます。
日本では今でも路上生活者(野宿者)に対する容赦ない強制排除が行われています。ハンセン病や精神病の問題って野宿者問題にも通じているのかもしれません。
5.呉秀三という人物
◯ここで触れておかなければならないのは呉秀三の思想と行動である。1901年にヨーロッパから帰朝した呉が、滞欧経験を踏まえて精神病者監護法に対して批判的立場をとったことは周知の事実である。
ただ、呉をもっぱら精神医療の改革者、戦闘的啓蒙家として理想化する見方には若干の修整が必要と思われる。
すなわち、精神障害者対策に関する呉の基本理念は「慈善」とともに「公安」を柱としており、後者を見落とすと公平な評価ができない。精神障害者が「もっとも憐れむべき」であると同時に「もっとも危険」であるという主張は彼の著作の随所に見出すことができる。精神障害者の危険性に向けられた公安重視の姿勢は、ことに日露戦争を境として彼の論調のなかで色濃くなっている。
しかしつねに一貫しているのは国家が果たすべき役割の強調である。精神障害者対策は何よりも近代国家の責務であり、逆に医療の進歩は国家の安定に奉仕するという彼の信念は確固としたものであった。精神病者慈善救治会を中心とする呉の活発な慈善活動も、欧化主義的であると同時に国家主義的であり、精神障害者の生活向上が国家利益と完全に一致するという大前提のもとに進められた。
呉の「此邦ニ生マレタルノ不幸」という周知の言葉は、単なる日本の後進性への慨嘆ではなく、「邦」に代わるものとして近代国家への期待を強くこめたものとして読めるだろう。この点で呉はまさしく明治時代の指導者の典型である。
●「慈善」と「公安」、あるいはアメとムチの姿勢は光田健輔とまったく同じです。
ついでに言えば、戦後の精神医療が民間への丸投げという呉秀三の意図とは違った流れになったことに精神医療政策の問題を見て「此邦ニ生マレタルノ不幸」というせりふを反復することは考え直すべきでしょう。ハンセン病の場合はまさに「国立」療養所に収容されたのですから。そして処遇に不満を漏らす入所者が「国賊」や「税金泥棒」などと罵られたことも想起すべきでしょう。

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