時代のエネルギー変位と豊かさ
1980年代と今この瞬間はどこか時代の雰囲気が似ている。
世はシティポップブーム再来だし、ファッションも1980年代回帰になりつつある。僕は何となくJPOPはずっと追っているが、最近のアーティストの出す音楽はどこか1980年代のころの雰囲気を感じさせる。そこに今風のおしゃれなアレンジとテクニックがスパイスとして加わっている。最近のアーティストは優秀だ。
これを単なる時代のサイクル的なものと捉えることもできるが、ここでは一つ何の根拠もない別の仮説を書いてみたい。
僕の仮説はすごくシンプルで、時代のエネルギー変位(傾き)が一周回って、1980年代と同じレベルに落ち着いてきたのではないか、というものだ。
時代というものには必ずその時代特有のエネルギー変位というものがある。恐らくそれは人口動態だとか景気だとかを反映するのだろう。
例えば、先日フィリピンのマニラに出張したとき、街の雰囲気は明らかに上向き調子であった。日本よりもまだ豊かではないが、希望が高層ビル群のそこかしらに煌めいては反射していた。大手町界隈のあのビル風が吹く、底冷えのする感触とは大違いだ。街には若者があふれていた。彼らがどのようなバックグラウンドを持っているかは知らないし、マニラ以外の農村部はきっと状況は違うのだろうが、少なくともマニラの金融街のスタバでコーヒーを飲んで、Citi Bankのパスホルダーを首からぶらさげている若者たちの総体から醸し出される空気は、次の10年間への光を感じさせるには充分であった。
マニラのエネルギー変位の高さは、日本でいうところの1970年代に当たると思われる。その時代に生きていないから確証はないけど。社会が経済的に発展し、人口ボーナス真っ只中で目に見えて生活が豊かになっている時代。豊かかどうか(高低)は問題ではない、豊かになっているという変化量(傾き)が重要なのだ。
この傾きと高低の関係というものは日常のいろんなところに溢れている。
初歩的な学問に少しだけ立ち戻ろう。高校数学が直接的に日常生活に役立つことは稀だが、その考え方は思考の幅を拡げる一助にはなりえる。
一つ微分を例に挙げたい。微分は、ある特定の関数をものすごく細かいレベルにまで分解してその一瞬の変化量を切り取って、全体の動きを予想しようとする理論だったはずだ。そこでは不変のルールがある。傾きが最大の時の後に必ず絶対値としての最大値がやってくる。逆もまた然り。最も勢いがあるタイミングと、最も絶対値が高いタイミングは必ずずれるのだ。
でもよく考えたらなんだってそうだろう。
日中太陽が最も高く上るのは12時だけど、気温が最も高くなるのはその2時間後だ。
アーティストが最もイケてる曲を出すタイミングと、そのアーティストが最も人気が出るタイミングは必ず前者が先で、後者が後だ。Sekai no owariが最も良い曲を出していたときは、スノーマジックファンタジーとかRPGをリリースしていた時だったが、最も売れたのはDragon Nightをリリースした時だ。僕たちが会社で昇進するタイミングも、最も頑張っているタイミングではない。最も脂がのっているときは役職は高くない。脂がのった報酬として人はえらくなり、勢いがなくなり、老害になっていくのだ。
これを立ち戻って日本の時代に当てはめよう。エネルギー変位は傾きで、結果としての豊かさを絶対値としよう。恐らく正のエネルギー変位が最も大きかったのは1970年代だ。そこから1980年代に入りエネルギー変位は緩やかになり、豊かさが最大となったのがバブル前の1990年手前。そしてそこからバブルが弾けて負のエネルギー変位が最も大きくなったのがその直後の1990年代。2000年に入り、景気とか人口ボーナスとは別のファクターとしてテクノロジーが急激に進化したことでおそらく社会は一瞬正のほうに傾きが変化したと記憶している。
そして、今。
景気も人口ボーナスもテクノロジーもいったん小康状態になりコロナが去った今、この瞬間。いや、コロナはもしかするとすべての時間の流れを強制的に止めたのかもしれない。
僕たちはもはやエネルギー変位が正なのか負なのかよく分からないくらいにフラットな世界に生きている。
限りなく、凪。
これ以上豊かにも貧しくもならない。何となく大きな方向性としては、真綿で首を締められるみたいに緩やかに死に向かっている。でも目の前で銃口を突き付けられているわけではない。
エネルギー変位の絶対値は限りなく、1980年代と同じ。ただ曲線の傾きは限りなく0に近い正ではなく、限りなく0に近い負だ。
これが僕が1980年と今の時代の雰囲気が似ていると考えている理由だ。
そうすると実は、今の時代は希望があるともいえる。一般的には急激な降下の後、緩やかな降下期に移行し、そこからまた緩やかな上昇期へと移行していくものだから。
こう考えてみると、それぞれの時代の中核であった世代が、どのような性格になるのかも必然になるという考え方もある。
その考察は次回以降に取り扱ってみよう。